赤染衛門と周防内持の一人二役
赤染衛門と周防内持の一人二役
(つくも百首かるた)

「つくも百首かるた」

私は「浄行院かるた」と同じ時期に同じ工房で制作されたと思われる「つくも百首かるた」を所蔵している。古書市での購入品であり、それ以前の履歴は分からない。この名称は私の命名である。カードのサイズは縦が七・四センチ、横が五・二センチ、縦横比率が七十パーセントである。このかるたでは「赤染衛門」のカードで、歌人名と和歌の記載の下部に赤染衛門ではなく周防内侍の図像が載っている。一方、周防内侍のカードでも正しく周防内侍の図像があるので、結局、周防内侍は二度登場することになっている。つまり本来は百人であるべき歌人が九十九人なのであるが、「九十九人一首かるた」では九十九首の和歌のかるたと誤解されそうであるし、「九十九人百首かるた」と表記して「くじゅうくにんひゃくしゅかるた」と読むのでは音の響きがもたつくので、「つくも」と読んでみたのである。このかるたは今まで公開する機会がなかったものであり、今回が初出になる。

このかるたは「浄行院かるた」と比べると一段階品質が下がる一般向けの中級品であるが、歌人絵はいずれも『素庵百人一首』の図像を忠実に模写しており、ポーズや持ち具が酷似している。書も、同一の書家の筆と思えるほどに書風が類似している。そして何より決定的なのは「坊主の頭」の描き方である。「浄行院かるた」とこの「つくも百首かるた」では、僧侶の歌人は例外なく、額が広いというべきか、はち張頭というべきか、独特の形に表現されている。他のかるたでは、僧侶の頭は丸く描かれており、これと異なる扁平の頭はこのかるたを制作したかるた屋に固有の特徴である。この決定的な特徴を共有していることが、二点のかるたが同一の工房で制作された事情を強く説明している。江戸時代のかるたの遺物では、同一の制作者のものと判断されることは極めて珍しい。それが、そもそも史料がほとんど残存していない江戸時代前期(1652~1704)のかるたの中で見出されたのであるから、史料的な価値が向上するのである。

つくも百首かるた
つくも百首かるた
(右:権中納言定家の図像に後京極摂政前太政大臣の和歌、 左:皇族になった定家)

なお、「つくも百首かるた」では、歌人像の取り違えが多数生じている。在原業平朝臣と参議等が入れ違い、中納言兼輔と大中臣能宣朝臣が入れ違い、小式部内侍と清少納言が入れ違い、後京極摂政太政大臣と権中納言定家が入れ違っている。このかるたの絵師は後京極摂政太政大臣を皇族扱いにして繧繝縁(うんげんべり)の上畳を配したが、それが書家によって藤原定家と間違われて入れ替わったので、結果的に定家が皇族扱いになってしまった。藤原定家は従二位止まりであったから、自分の没後の事故とはいえ、あの世でさぞかし恐縮したことであろう。なお、このかるたの収納箱は後世の拵えものの木箱で史料としては参考にならない。

三池カルタ・歴史資料館蔵「古型百人一首かるた」

このかるたは、平成年間に古書市で購入したもので、それ以前の履歴は不明である。「古型百人一首かるた」に属するが、制作年代はこれまでのものよりも遅くて元禄年間(1688~1704)に近いものと思われるし、また絵でも書でも相当の乱れがある。かるたのサイズは、縦が七・四センチ、横が五・〇センチ、縦横比率が六十八パーセントである。制作工程の順番にそって検討を加えよう。

まず上の句札にある歌人絵でいえば、各々が相当に定型化して同じような図像になっており、女性の歌人が見返るはずの図像が簡略に正面向きになっており、僧侶の図像が西行法師なども僧綱襟(そうこうえり)に定式化されていて別人かと見紛うほどであったりする。あまり丁寧な制作ではない。次に、図像のある表紙(おもてがみ)をカードの大きさに切り分けて裏紙と貼り合わせる工程であるが、文屋朝康などは図像の部分が相当右に寄りすぎており、この点でも丁寧さが足りない。そしてこのかるたの最大の乱れは絵と字の合体の工程で起きている。半完成したカードに歌人名と和歌を書き入れる書家はやや奔放で、歌人の図像のない余白をいっぱいに使って、決して読みやすくはない書風で大きく歌人名や和歌を表記しており、ときにそれは畳に重なり、歌人の衣裳に重なっているが、自分の書が歌人絵に迷惑を及ぼしていることは気にしていないようである。

中級古型百人一首かるた
中級古型百人一首かるた
(右:三條院、左:崇徳院、
三池カルタ・歴史資料館蔵、江戸時代前期)

和歌の本文の記載では、三條院の和歌が「この世」であり、俊恵法師が「明けやらぬ」であるが、源俊頼朝臣は「山おろし」である。歌人名の方は、中納言敦忠と古型を守っている表記もあるが、大僧正行尊、従二位家隆と、すでに標準型になっているものも混じっている。誤字もいくつかあるが、歌人名の表記では、藤原敏行朝臣、源宗干朝臣、藤原実方朝臣、藤原道信朝臣、藤原清輔朝臣などから「朝臣」が脱落している。在原業平などにはなお「朝臣」とあるのであるから、軽率な書き漏らしと考えられる。伊勢大輔が「伊勢」とされているが、すでに別に伊勢本人が本来のカードに登場しているので同一名の者が二度登場して具合が悪い。そして、書家の奔放な態度が最も強く出ているのがカードの取り違えであり、猿丸大夫の図像のカードに安倍仲麿の和歌があり、逆に安倍仲麿の図像のカードに猿丸大夫の和歌がある。河原左大臣の図像のカードには光孝天皇の和歌があり、光孝天皇の図像のカードには陽成院の和歌があり、陽成院の図像のカードには河原左大臣の和歌がある。そのために、河原左大臣が繧繝縁(うんげんべり)の上畳に座り皇族扱いで、陽成院が高麗縁(こうらいべり)の上畳に座って臣籍扱いになる。陽成院は十七歳で退位させられた素行の悪い天皇、光孝天皇はその空席を埋めるために急きょ擁立された名ばかりの高齢の天皇、元良親王は陽成院の第一皇子であるが父の退位により皇位を継げなくなった人物、河原左大臣はこの混乱期に皇位を狙って退けられた一人であるから、元良親王がかるたの世界では一貫して皇族扱いされていないことも見ると、この繧繝縁(うんげんべり)をめぐる誤りには何やら平安時代の皇位継承に関わる争い[1]を含意する背景がありそうに見えるが、実際は単純で、かるた工房の書家のミスである。また、左京大夫道雅の和歌のカードには武人なのに公家の姿の図像があり、これは権中納言定頼であり、権中納言定頼の和歌のカードには、公家なのに武人の姿の図像があり、これは藤原基俊であり、藤原基俊のカードには左京大夫道雅がいる。今日、プロ野球で言う「三角トレード」という言葉が浮かぶ。女性歌人では、待賢門院堀川には几帳と繧繝縁(うんげんべり)が配されて後ろ姿が描かれており、これは式子内親王である。逆に式子内親王は几帳の脇に正面を向いて座っており、誰なのかがよく理解できない。皇嘉門院別當とされているのは殷冨門院大輔であり、殷冨門院大輔は後ろ向きで実は皇嘉門院別當である。僧侶では、どの僧侶にも高僧の僧綱襟(そうこうえり)姿の大盤振る舞いである。漂泊の歌人西行は、大僧正の衣裳を着させられ着心地が悪かったのではなかろうか。

こうしてみると、このかるたは、時代でいえば元禄年間(1688~1704)であろうか、「古型百人一首かるた」が相当に普及し、中流の町衆などの需要に応じるようにやや粗略に制作されたものと考えられる。すでに、以前は手本とされていた『素庵百人一首』や『尊圓百人一首』は手にしにくくなっていたのであろう。このかるたが如実に示しているように、書も、絵も混乱している。この乱れを正そうとして、それに代わる新時代の菱川師宣の版本を手本にして制作するようになる時期もそう遠くないように思える。そうした歌かるたの制作現場の状況を露わに示している点が、もしかしたらこのかるたの最大の史料価値であるかもしれない。なお、収納箱は略式の慳貪(けんどん)型で、朱漆掛けであり、退色して茶色に見える。江戸時代前期の収納箱の特徴がよく示されていて、この点も史料の時代判定の参考になる。

三池カルタ・歴史資料館蔵「初期版画百人一首かるた」

元禄年間(1688~1704)に「 六條坊門 」のかるた屋は歌人像が木版手彩色の「百人一首かるた」を売り出した。歌人画が印刷されたうえに丹緑の簡単な手彩色を施したもので、サイズも少し小さく、縦が七・四センチ、横が五・〇センチで、縦横比率は六十八パーセントである。それまで「古型百人一首かるた」はもっぱら二條通のかるた屋が手描き、手作りで商品化していたのだから、これと地域が異なる 六條坊門 (五條橋通)の賭博系カルタのかるた屋による木版画の「百人一首かるた」の誕生はもう一つの創業であった。

歌人絵は木版画であるといっても、当初は歌人名と和歌はまだ手書きであった。そのために、歌人の図像は古型百人一首歌かるたなのに、和歌の表記は書家の考えによって元禄期(1688~1704)以降の新様式である標準型となっている。この制作工程を短縮して和歌の表記まで木版摺りにした安価な「木版百人一首かるた」が商品として売られるようになったのは江戸時代中期(1704~89)以降のことであり、この種類のかるたに大きな需要が生じて、京都が「木版摺り」「手彩色」「張抜き」「縁返し(へりかえし)」の「百人一首かるた」の本場として評判を取った。

最初期木版百人一首かるた
最初期木版百人一首かるた
(右:三條院、左:崇徳院、
三池カルタ・歴史資料館蔵、江戸時代前期)

このかるたは縦七・三センチ、横四・八センチ、縦横比率六十六パーセントで、木版の上に手彩色で、朱色、緑色、黄色、時に紺色で着色している。下部の上畳では、繧繝縁(うんげんべり)も高麗縁(こうらいべり)も黄色の顔料で塗られているので、木版の描線をよく見ないと誰が皇族で誰が臣籍であるのかが分からない。歌人図は『尊圓百人一首』の古型の様式を極めて忠実に表現しており、歌人のポーズ、衣裳、持ち物などが明瞭に印刷されている。ただ、参議等が右を向いて坐り、弓が身体の前に描かれているのは菱川師宣の『小倉山百人一首』の影響であろうか。黒衣の公家も二十二名と手本通りである。こうしたカードに銀色の裏紙を縁返し(へりかえし)の手法で貼り合せ、そこに端正な書で歌人名と和歌が加わる。歌人名は、中納言敦忠、前大僧正行尊、正三位家隆と古型の決まり通りに書かれている。一方、和歌では、三條院は「うき世」、源俊頼朝臣は「山おろし」、俊恵法師は「明けやらで」と標準型である。

要するに、このかるたは、和歌の表記が標準型になっているので元禄年間(1688~1704)に入ってからの作品であろうか、それでも、銀裏紙であるし、慳貪(けんどん)型で赤漆の生掻けの木箱に収納されるなど、古型の様式は守られている。つまり、新しく開発した木版印刷の技法を応用して「百人一首かるた」を売り出そうとする制作者の意気込みと、簡素ではあっても粗略にはならないように、手本の版本を忠実に写し取ろうとする誠意に溢れた、極美品とは言えないがすがすがしい印象の残る佳品の「古型百人一首かるた」である。なお、このかるたも古書市場からの蒐集品であって前歴は明らかでない。

こうした「版画百人一首歌かるた」は滴翠美術館のコレクションにもある。『うんすんかるた』には①「小形版画百人一首歌カルタ」二組(一二六頁)、②「百人一首版画絵入歌カルタ」(一二八頁)、③「百人一首版画絵入歌カルタ(一般向粗品)」(一二八頁)が紹介されており、①の一組のかるた札数枚と②のかるた札数枚が写真(前者は一二五頁、後者は一二八頁)で掲載されている。③のかるた札については、『日本のかるた』(五頁)に写真が掲載されているものがそれであろう。紹介が簡略で、図像も少数なのでよく分からないが、①は雛道具のようなミニチュアで、図像も文字も木版で済まされているが、②と③は、図像は木版手彩色で、文字は手書きの様に見える。私は、以前はこれらをいずれも「木版百人一首かるた」と一括りにして呼んでいたが、①を「木版百人一首かるた」と呼び、山口吉郎兵衛の様に②や③を「版画百人一首かるた」と呼んで分類するのが混乱なく理解できて適切だと思うので改めたい。そうすると、①は雛道具でありさておくとして、史料的に重要で注目されるのは②と③である。

小形版画絵入歌カルタ
小形版画絵入歌カルタ
(滴翠美術館蔵、『うんすんかるた』)
百人一首版画絵入歌カルタ
百人一首版画絵入歌カルタ
(滴翠美術館、『うんすんかるた』)
百人一首版画絵入歌カルタ
百人一首版画絵入歌カルタ
(一般向粗品) (滴翠美術館蔵 、
『日本のかるた』)

②の「百人一首版画絵入歌カルタ」に関する『うんすんかるた』での説明はこうである。

「百人一首版画絵入歌カルタ 百組 竪七センチ五ミリ、幅四センチ八ミリ余。上下句札共、表は紙地銀砂子散し、裏は銀無地。版画に簡単な筆彩色を加えてあるが、顔面に胡粉を塗り加筆したものもある。比較的粗製品ではあるが、時代の風致が顕れて雅趣がある。元禄頃」

百人一首版画絵入歌カルタ
百人一首版画絵入歌カルタ(一般向粗品)・
畳の上の文字(右:小野小町・「り」、
中:紀貫之・「て」、 左:喜撰法師・「ち」、
滴翠美術館蔵、『日本のかるた』)

写真は天智天皇、持統天皇、小野小町、赤染衛門、殷冨門院大輔、柿本人丸、三條右大臣、参議雅経の絵札である。持統天皇の札は几帳が右、天皇が左に描かれており、他の歌人図像との入れ違いではなくこのかるた札にのみ特有の構図であり、このかるたでは持統天皇名の表記が左側の縁によっている。これは他に例がないが、少し考えれば分かるように、図像を左右反転させたので、右端に几帳が背高く描かれていて、歌人名を入れるスペースの余裕がない。そこで窮余の一策として左側に置いたのであろう。また、三條右大臣は、他のかるたではほぼ例外なく黒衣であるのに、このかるたでは違う色彩の衣装をまとっている。ただし白黒写真なので色彩までは判別できない。

③の「百人一首版画絵入歌カルタ(一般向粗品)」に関する説明はこうである。

「百人一首版画絵入歌カルタ 百組 竪七センチ五ミリ余、幅五センチ五ミリ。上下句札共、表は紙地に銀箔粗散し、裏は銀無地。版画に奈良絵風の彩色が無頓着にチョイゝゝゝと施してある。前記のものと似ているが一層粗品で一般向のものであろう。元禄」

『日本のかるた』での写真は、小野小町、皇嘉門院別當、前中納言匡房、持統天皇、紀貫之、後鳥羽院、喜撰法師などの絵札と、「かこちかほなる我なみだかな」の字札である。木版画は顔の表情なども丁寧に摺られている。商品としてかるた札を束ねた際に最上部に置かれて表紙にあたる持統天皇の札だけが極彩色に彩色されている。小野小町の札の上畳の部分に「り」、紀貫之に「て」、喜撰法師に「ち」、匡房に「〇」、後鳥羽院に「記号」があるがその意味は分からない。手書きの文字はお家流の書で装飾性が強い。

以上、要するに、江戸時代 前期(1652~1704)、元禄年間(1688~1704)頃に木版画の百人一首かるたが作られるようになり、それが社会的に受け入れられて、江戸時代中期以降の全面木版の百人一首かるたの流行に繋がったことが分かる。そうした歴史を物語る史料としてこのかるたの史料価値は高い。

「時雨殿蔵かるた4」

京都市にある「小倉百人一首文化財団」の「時雨殿」には注目するべき「百人一首かるた」が所蔵されている。これは同施設が入手してホームページでデジタル化された情報を開示しているものの中にあり、そこに言う「所蔵資料4」[2]である。このかるたは購入の経緯もそれ以前の履歴も明らかにされていない。一般の書籍に登場したことが少なく、登載されても所有者からの学術的な説明、解説がされていない[3]

このかるたは上で扱った①②③の「古型の判断基準」の多くを満たしており江戸時代前期(1652~1704)の「古型百人一首かるた」として認定される。これを「道勝法親王筆かるた」と比較すると、このかるたは横幅が縦の長さの七十一パーセントと少し幅広であることや、図像が遙かに精密であること、また金彩色を多用していることなどから、少し時代が遡るように見える。但し、赤染衛門と祐子内親王家紀伊を皇族扱いしているのは菱川師宣以降の類似版本の影響であり、そうすると早くても元禄年間(1688~1704)の初めあたりの制作であろうか。また、金裏紙を用いているのも元禄年間(1688~1704)以降の様式であり、銀裏紙を好んだ貞享年間(1684~88)以前の時期までは遡ることがない。さらに、収納箱は「黒漆に菊唐草の蒔絵を施した豪華な箱を伴っており」[4]と紹介されている。こういう収納箱の様式もまた、このかるたが元禄年間(1688~1704)以降のものであることを示している。結局、「所蔵資料4」は、同一色の用紙、金裏紙、黒漆の収納箱などの、末梢的で平凡であるがゆえに客観性が高い制作年代測定のポイントにてらせば、その制作時代が元禄年間(1688~1704)に下がる、「古型百人一首」の晩期の作品と思われるのである。

「時雨殿蔵かるた16」

「時雨殿蔵かるた16」[5]については時雨殿の入手した経路などのデータが公開されていないので由来が分からないが、「古型の判断基準」の①②③を全面的に満たしており、江戸時代前期、元禄年間(1688~1704)以前の「古型百人一首かるた」として認定される。これを「道勝法親王筆かるた」と比較するとよく似ており、一見すると寛文、延宝年間(1661~81)のもののように見えるが、在原業平朝臣と参議等の画像が逆転していて手本が『尊圓百人一首』とは違うし、金裏紙を用いており、元禄年間(1688~1704)のものであることが分かる。収納箱に関する情報は開示されていないが、これもまた古型のかるたとしては晩期の作例である。


[1] 目崎徳衛「百人一首の作者たち(七)敗北の帝王(上)、(八)敗北の帝王(中)、(九)敗北の帝王(下)」『短歌』第二十八巻七号~九号、角川学芸出版、昭和五十六年。

[2]https://www.shigureden.or.jp/outline/collection_detail.html?from=collection_list_search&set_id=4

[3] 『別冊太陽百人一首への招待』、平凡社、平成二十五年、三五頁。

[4] 同前『別冊太陽百人一首への招待』三五頁

[5]https://www.shigureden.or.jp/outline/collection_detail.html?from=collection_list_search&set_id=16

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