天正カルタ彩色見本・フロレス・カード
「天正カルタ彩色見本・フロレス・カード
(スペイン、1583年頃)」

次に、使用する顔料の問題がある。まず、顔料については、スペインのセルビア市に行き、「旧植民地公文書資料館」に残されているフロレスのカルタが鉱物性の顔料を用いていることを調査し、さらに、欧米各地の博物館や個人のコレクションに残されている十七~十八世紀のスペイン、イタリアのタロット(裏紙を折り返す「縁返し(へりかえし)」製法のもの)を調べた。一組七十枚以上のカードのうちわずかに一、二枚だけが残っていてほかにあまり役に立たない端物を私費で購入して、分解して調べたこともある。また、当時のタロットを松井に見せて意見を聞いたこともある。

天正カルタで使用する色彩は、まずは滴翠美術館の「三池カルタ」と、1583年頃のフロレスのカルタ、それに、当時のヨーロッパのカルタや江戸時代の日本のカルタなどがおしなべてそうであったように、赤、黄、緑の三色と判断した。滴翠美術館の「三池カルタ」や江戸時代の「メクリカルタ」を参考に、顔料に小量の膠を加えて使用した。

天正カルタの金銀彩の痕跡
天正カルタの金銀彩の痕跡(滴翠美術館蔵)

カルタのデザインにおける色の配置は、基本的に上記のフロレスのカルタに依拠し、それに、江戸時代の日本のカルタから推測される違いを加味した。何カ所か迷ったところがある。何しろこれは、どこかで新たに天正カルタのカードが発見されると、比較されて推定の正しさが検証されるという恐ろしい世界である。最善を尽くし、それでも生じる間違いには頭を垂れるよりしょうがないと腹をくくって決定した。また、滴翠美術館の天正カルタには「木の葉」形の金銀彩を加えたと思われる跡がある。普通は分かりにくいが、『文芸春秋デラックス 古典の遊び日本のかるた』に載っている大型の写真[1]を見ると分かる。一般に、カルタに金銀彩を加えるのは日本の特徴であり、フロレスのカルタなどの「南蛮カルタ」には金銀彩はなかったと考えられている。天正カルタの時期にすでに金銀彩があったとすると、日本様式の確立の時期という意味で重要なポイントになるが、史料があまりにも少ないので手がつけられず、これも課題として手を付けないで残した。

ここで最後まで気になったのが手描きの天正カルタでの配色である。これについては以前から大阪の南蛮文化館所蔵のものが知られていたが、そこでは彩色が大きく損なわれていた。だが実はもう一組、江戸時代前期のものであるが、京都二條あたりのカルタ制作者が拵えた手描きの美麗な天正カルタ[2]がアメリカのコレクターの手中にあり、残存する四十六枚のカードにつき、つぶさに検討することができた。このカードは、のちに、私もかかわって、滴翠美術館に買戻しをして貰ったのであるが、この図像、彩色は、天正カルタの史料としては第一級のものであった。同じく滴翠美術館蔵のわずか一枚の木版天正カルタの彩色から得られる情報量の数十倍のデータを得ることができる。そして、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の社会で、手描きの天正カルタと木版の天正カルタで、細部の彩色に違いがあるのは当然であるが、基本となる部分の彩色がまるで違っていたという事態は考えにくい。両者の間には大きな違いはなかったと考えられる。そうだとすると、この手描きの天正カルタの彩色こそ依拠するべき基本の配色データなのではないか。こう考えて、私は、相当程度、この手描きの天正カルタをいわば隠し球にして、参考にして彩色を決めた。

彩色でとても悩ましかったのは四枚の龍の図像で、胴体の背部と腹部の色分けであった。背部が緑で腹部が赤という配色のものと、逆に背部が赤で腹部が緑という先例があった。復元作業では背部を緑、腹部を赤にしたがこの逆も当然ありうる。また、四枚のウマの図像で馬の脚を赤色に彩色するか、無色のままに残すかも相当に悩んだ。後の賭博系カルタでは、馬の脚に相当する部分は赤色であるが、これも思い悩んだ末に彩色をしないことにした。その他、絵札の着衣の彩色は様々な先例があるので適宜に処理した。おそらく、 江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)にも確定的な彩色の決まりというものはなくて、カルタ職人が自分で考えながら色を加えていたのであろう。


[1] 「古典の遊び 日本のかるた」『文藝春秋デラックス』、文藝春秋社、昭和四十九年、五頁。

[2] 江橋崇「海のシルクロード―トランプの伝来とかるたの歴史」『遊戯史研究』第一号、遊戯史学会、平成元年、一五頁。

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