(二)源氏物語かるたの起源

貝型源氏歌かるた(制作者不明、三池カルタ・歴史資料館蔵、江戸時代前期)

初期の歌合せかるたとしては、「百人一首かるた」よりも「源氏物語歌合せかるた」(以下「源氏物語かるた」)のほうが優勢であったように思われる。残された寛文、延宝期(1661~1681)以降の「源氏物語かるた」を見ると、紙片を雄雌の貝殻の形に切り取り、表面には源氏物語の各巻の和歌を上の句、下の句に分けて書き、裏面には銀色の裏紙をあてがい、その縁を表面に折り返す縁返しの手法がとられている。また、それと別に、長方形のかるた札の上部に和歌を書き、下部に蛤貝の枠の窓絵を描いて、その中に、源氏物語のその巻の情景を描いたかるたがある。蛤貝型のカードの工作はとても微妙で手間がかかるものであって、長方形のカードの中に貝型の図像を描くほうがはるかに容易である。そうした意味では後者は制作工程の簡素化のための工夫でもあったが、それはさておき、貝覆で貝の内側に描いた図像の中には源氏物語の各巻の場面を描いたものがあったのだから、源氏物語かるたは貝覆の伝統を生かしたものといえる。

貝源氏歌合せかるた
(滴翠美術館蔵、江戸時代前期、
『源氏歌かるた』)


源氏絵合せかるた
(上段:若菜上、下段:若菜下、
滴翠美術館蔵、『源氏歌かるた』)

この点で、山口格太郎は、かつて、重要な発見[1]をしている。源氏物語では「若菜上」に登場する、子猫が飛び出して御簾がめくれ、柏木が女三の宮を見初めたことで有名な蹴鞠の場面が、室町時代の貝覆の挿絵でなぜか「若菜下」の場面として描かれることになっており、この間違いが江戸前期の源氏物語歌合せかるたに受け継がれているというのである。これは、室町時代の「貝覆」のデザインがかるたに伝承したという事情を明らかにする鋭い観察であり、「源氏物語かるた」の成立した事情が明らかになる。

将棋駒型百人一首歌合せかるた
(富小路頼直筆、三池カルタ・歴史資料館蔵、
江戸時代前期)

また、江戸中期の文献史料にカードが将棋駒型のかるたが中間形態であるとしているものがあり、山口格太郎は、貝覆が長方形のかるたになる中間過程に、貝型のかるたや将棋駒型のかるたがあると考えた。将棋駒型の歌かるたとしては、いずれも一七世紀の中期と考えられるものが三種、四点残されている。滴翠美術館とロンドンのギルドホールが各々所蔵する複数の歌集から和歌を選んだ同一のかるたと、福岡県柳川市の「お花」に残されている三代藩主立花鑑虎直筆の百人一首かるた、及び福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館の所蔵する公卿の富小路頼直筆になる百人一首かるたである。これらの作者の生存した時期から十七世紀半ば、慶安、承応、明暦年間(1648~58)頃のものと考えられている。

このほかに、扇面型のかるたや櫛型のかるたもある。こうした異型のかるたは、江戸時代前期の流行のものであるが、元禄年間(1688~1704)ころまでにカードが長方形で採用した歌集の和歌の作品に応じた図像入りの歌合せかるた、あるいは歌人像付きの百人一首かるたが人気を得て、異型かるたは衰退した。

「源氏物語かるた」の歴史には、直接に宮廷の関係者の名前は登場してこない。しかし、そこに宮廷文化の影響を見ることは不自然ではないだろう。三田村雅子[2]は、江戸期の源氏物語の受容に、宮廷の文化戦略ないし政治学が強く影響していることを力説している。そこで言われるように、源氏物語、百人一首、雛人形は、内裏からの外出も許されず閉塞を強いられ、学芸だけにその権威を限定された天皇が、武家の支配に対抗して、天皇こそが古来の由緒正しい日本の文化の中心であり、最高の権威であると主張することでアイデンティティーを回復しようとするとき、「カルチャ」になって広く普及する格好のツールとになっていた。そして、かるたという形は、「源氏カルチャ」「百人一首カルチャ」の具体的な姿であったのである。

 


[1] 山口格太郎「源氏歌かるたのできるまで」、『円地文子源氏歌かるた』、徳間書店、昭和四十九年、七八頁。

[2] 三田村雅子「近世天皇家の文化戦略と『源氏物語』』明治大学人文科学研究所編『江戸文化の明暗』風間書房、平成十三年、九九頁。同「源氏物語の政治学」『日本文学』平成十九年三月号、五二頁。