花札の遊技法には、江戸時代の女性らしさを求める文化が見える。すでに絵合せカルタは上流階級の女性が愛好する遊技として始まったことを紹介したが、花札に付いてもそれが当てはまる。創始者の示した遊技法は、このかるたの遊技が、基本的には文芸や芸能風の役作りにあることを示している。そして遊技者に求められるものは、他の遊技者から何かを奪い取る戦いの能力、勇気ではなく、博奕の才能でもなく、場に展開されている共有物の札を順番を守りつつ釣り取る文芸、芸能風の理解力、才智が求められる。これは、言うならば村落の周辺にある入会地に順番で入って、果実や茸類を採取する作業のようなものである。そして遊技は最後まで行われ、各人が得た札を比べ合う。これも、同じ条件で入会いの山に入り、そこで得た収穫物の多寡を比べ合うようなものである。戦いの猛々しさではなく、文芸、芸能風のしとやかさ、優雅さが求められる。それは、元禄年間に確立したような、親に従い、夫に従い、子どもに従うしとやかな女性というモデルにうまく合致した、奥方様、お姫様、あるいは奥様、お嬢様にふさわしいたしなみの、穏やかな遊技法である。花合せかるた、そして四十八枚の花札は主として女性向けの遊技であったと思う。

花札を賭博遊技として見ると、ぬるい。それは、賭博場での本格的な博奕には適さない。花札の遊技に賞金や賞品が賭けられることはある。賞金である場合もあるし、菓子とか、化粧品とか、衣裳の小物か、時には豪華な着物そのものとか、賭けられるものは千差万別である。だが、それは、主催者なり、目上の者からの褒美、振舞であり、参加者が賭金を提出して、勝負の結果を金額に換算して割り戻しを求める博奕ではない。現代社会で、遊技の大会の優勝者に賞金、商品が用意されるのと同じ、囲碁や将棋のチャンピオン戦に巨額な賞金が新聞社から提供されるのと同じことで、賭博行為とはみなされていない。

こういう優美な花札の遊技がそれでも賭博に用いられるようになったのは幕末期(1854~68)、そして明治前期(1868~87)である。それには、社会が荒れるのに伴って花札の遊技法に点数が導入され、特に幕末期(1854~68)の動乱で西日本の諸藩の兵士、人足などが登場して江戸に入り、彼らの好む賭博カルタと同じような賭博的な勝負が、東日本、江戸でもみられるようになったことと符合しているし、さらに、「松」「梅」「桜」などの紋標を「一」「二」「三」に換算して、かぶカルタ系の遊技に使うようになったこととも符合する。そして、この変化に対応して、明治前期(1868~87)には、花札の図像に、端的に 「一」「二」「三」 と、あるいはカモフラージュ気味に 「一」「二」「三」 と記載されるようにもなった。こうした終焉期の変化については後に詳しく扱う。

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