百人の歌人絵、歌人画について、一人ひとりを調べて図像の系譜を探るという研究の方法は以前から日本文学史や美術史の専門研究者たちによって散発的に行われてきたが、私はその不徹底さが気になり、素人ながら、かるた史研究の境界を超えて研究を試み、専門家の業績を読破した上で比較検討を百人の一人一人について行った。その結果、ここに紹介したように、従来は専門研究者が見逃していた何点かの新しい発見があった。以下の諸点は特に重要な発見であったと思う。

『業兼本』歌仙絵の複数歌人(天皇)像への転用  (右:源公忠(業兼本)、右より、三條院、  後鳥羽院、順徳院(素庵本))
『業兼本』歌仙絵の複数歌人(天皇)像への転用
(右:源公忠(業兼本)、右より、三條院、
後鳥羽院、順徳院(素庵本))

(1)江戸時代初期(1603~52)から江戸時代前期(1652~1704)にかけて三十六歌仙や百人一首の画帖が成立した。それには、美術品としての鑑賞という機能があるが、そこに添えられた歌仙絵、歌人画は和歌の解釈や歌人の生きざまへの理解をめざして個性を持った図像を芸術的に描くのではなく、ひたすら華美に、王朝文化の雰囲気を味わう装飾画として工芸的に描かれており、別の歌人へのなりすましの図像が多く、同一の歌仙図像からクローンのような複数の歌人図像が成立した例も少なくない。

(2)歌人図像の付く百人一首本の嚆矢となった『素庵百人一首』の出版に踏み切った背景には、世阿弥光悦や角倉素庵の『三十六歌仙』画帖という版本の出版と成功があったであろう。これは、それまではもっぱら写本でしか存在しなかった歌仙絵を版本にするものであり、色彩はなくとも強い印象を与え、急速に、広範囲に普及して版を重ね、あるいはその後類書が出版され、歌仙絵の版本といえば世阿弥光悦、角倉素庵であるという評判が確立した。それを百人一首の世界に拡大したのがこの『素庵百人一首』である。ただし、『素庵百人一首』は『光悦本』を経由して三十六歌仙画帖を基にして新しい歌人図像を大量に創作しているので、一見すると直接に『業兼(なりかね)本』を手本にしたように見える。

(3)この種の「歌仙画帖」はしばしば「歌仙手鑑」と命名されているように、「手鑑」つまり上流階級の女性や女児の書道手本として活用する機能も持たされている。この時期、「書」に目覚めた町衆や庶民は書道の手本を版本に求めたので広く流行したが、公家や大名の家中ではそうはいかない。そこで、そういう奥方様やお姫様の書道手本を特注で注文し、美麗な手描きの歌人像図の上部に当代の名筆の書がある「新筆手鑑」が制作されたのであろう。あるいは狩野探幽の「百人一首手鑑」類がそうであるように、目上の者への貢物とする予定で特注されたのかもしれない。この種のものは上流階級の女性の顧客に向けた一品生産であって他に類品は制作されない。狩野探幽の画帖も幕府に献上された後は江戸城の大奥深くに収納されてしまい、その図像がいかに華美で素晴らしかろうとも、その書がいかに心躍らせる名筆であろうとも、それが社会に広く知られることはないし、人々が見る機会も模倣される機会もない。せいぜい、献上品を描いた絵師の周辺から断片的に情報が洩れ、摸本が制作される程度であり、これでは図像を社会的に革新する起爆剤にはなりえない。「歌仙手鑑」は実際に手鑑として機能するように制作されており、これを単なる観賞用の画帖と理解するのは誤解であり、この手の超高級品の社会的影響は限定的なものである。

(4)一方、『素庵百人一首』に始まる百人一首の歌人画付きの版本は、題目に「手鑑」の二文字こそないが、実質は書道の手本でもあった。これと対照的なのは、同時期に成立していた細川幽斎の百人一首解釈本『百人一首抄』(幽斎抄)であり、こちらは、挿絵のない文字ばかりの書であるが、百人一首を文芸作品として理解し、鑑賞する手引書となった。一方、『素庵百人一首』では、読者には解釈、鑑賞の手引きは与えられておらず、自分で自在に理解して楽しむか、書の美に浸って楽しむか、歌人画に触発されて王朝文化を追憶する気分になるかであった。そういう娯楽的な要素の強い出版物である。この両者を融合させたのが歌人像画付きの注釈書であり、現存するものでは万治三年(1860)刊、京都寺町、山田三郎兵衛板の『万宝頭書百人一首大成全』が最も古く、延宝三年(1875)に上方で、また延宝六年(1878)に江戸で刊行された。さらに、菱川師宣の挿画で有名な『百人一首像讃抄』は、注釈文、歌人像に加えて歌意図も登場させるという新工夫を施して賑やかである。

『万宝頭書百人一首大成全』  (右上より、表紙、源宗干朝臣、参議等、  赤染衛門、祐子内親王家紀伊、崇徳院)
『万宝頭書百人一首大成全』
(右上より、表紙、源宗干朝臣、参議等、
赤染衛門、祐子内親王家紀伊、崇徳院)

『百人一首像讃抄』  (右:権中納言定頼、左:相模)
『百人一首像讃抄』 (右:権中納言定頼、左:相模)

(5)美術史的に見ると、寛永年間(1624~45)以降に成立した『素庵百人一首』や慶安年間(1648~52)の『尊圓百人一首』に付いていたのは彩色のない白絵であり、これは遺品がないので単なる私の想像であるが、購入者の中には自分で彩色したり身近な絵師に任せたりして、いわば塗絵のある書として楽しんだ者もいたと思われる。そして寛文年間(1661~73)には、これに刺激されたのか、歌人画に絵師が彩色を施した百人一首本の奈良絵本が登場した。そして、それに続くように、延宝年間(1673~81)には版元の側で絵師が採色絵を描いた「歌人絵付き百人一首かるた」が成立した。それは芸術作品というよりは美術工芸品として成立し、人々の遊技の用具として歓迎された。

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