かるたとしての広がりという点からすると、百人一首かるたの勝ちであった。江戸時代の全期を通じて、さまざまな歌合せかるたが存在した。伊勢物語、古今集、新古今集、自讃歌集、三十六歌仙歌集などが作品として盛んに用いられた。これらは、文字かるたが多かったが、中には、源氏物語と同じように、和歌の作品の場面を描く挿絵の入ったものもあった。源氏物語かるたでは、元禄年間(1688~1704)にはそれまでカード上の図像を収めていた貝型の枠が外れて、長方形のカードの全面に広く挿絵が拡大して描かれるようになったが、これと同じように、他の歌集の歌かるたでも、広く伸びやかに挿絵が描かれたのである。手描きの高級なかるたは、遊技に用いるよりも鑑賞して楽しむ美術品と考えたほうがよいような美しさである。

しかし、かるたという遊技の用具という点からすると、百人一首かるたが圧倒的に優勢であった。江戸時代の初めに、百人一首の和歌を理解している人々の数と、源氏物語のストーリーや和歌を理解し得る人々の数の、どちらが優勢であったのかは知らない。だが、それがどうであれ、百人一首かるたの遊技では、江戸前期(1652~1704)から、上の句を読み上げて下の句札を取るという新しい遊技法が成立した。これは、百人一首かるたの愛好者を爆発的に増加させるきっかけになったと思われる。

私は、以前から、これを、口承文芸としての百人一首かるたの成立と呼んでいる。日本の文化では、もともと、和歌というものは、耳から聞いて口から表現する口承文芸であった。「百人一首かるた」は、遊びの中で口承文芸という日本の和歌文化の正統な姿を再現したことになる。百人一首のかるた遊びが、読み手が読み上げ、取り手が、その札を裏返したり、素早く取ったりすることを争う遊技になったとき、百人一首のかるたは、文字を持たなかった古代人の和歌と同じように、文字が読めない者でも耳から聞いて楽しめる「カルチャ」になった。かるたのカード上の文字は、読み上げられた和歌と結びつく札の記号となってしまったのである。「きみがため は」と読まれたら「わ」の札を取ればよい。「きみがため を」であったら「な」の札を取ればよい。つまり、和歌について耳から覚えて記憶していれば、文字については「わ」と「な」が読めれば参加できる文化である。 「百人一首歌合せかるた」は、こうしたレベルの知識でも安時代からの優雅な雰囲気の遊びに参加することができる。ここには、スポーツ感覚と伝統文化への憧憬の見事な融合の「カルチャ」がある。

元禄年間(1688~1704)には、「百人一首かるた」が大流行して、公家や大名家の嫁入り道具かと思われる豪華絢爛の高級かるたとともに、同じく手描きの美しい挿絵が入っているが、全体に中級品というべき中流の武家や町家向けのかるたが作られ、さらに、木版で歌人像の輪郭を摺って丹緑の色彩を加えた簡略な挿絵の庶民向けのものが出回っていた。一方、「源氏物語かるた」に関しては、こういう、爆発的な需要の拡大を示す史料は出てこない。かるた遊技の世界では「百人一首カルチャ」のほうが「源氏物語カルチャ」に勝っていたのである。

これに加えて、百人一首という歌集の和歌は、女子どもの書道の手本、手鑑として活用された。たとえば江戸時代を通じて繰り返し刊行された木版刷りの『尊圓百人一首』など、多くの刊本が、歌人像を添えて提供され、そこでも百人一首の和歌が親しまれることになった。  

この頃に、百人一首かるたの遊び方の一種に、「雪」「月」「花」「恋」の札に高い得点を与える「むべ山かるた」という遊技法が登場した。備前地方では特に盛んで、岡山県人は今でも「百人一首うたあわせかるた」を「むべ山かるた」と呼んでいる。また、岡山県で使われていたかるたでは、「むべ山風を嵐というらん」のカードが最高位とされて特別に加色されているものがある。また、東北地方などの山間部では、紙製のカードに代えて木札が用いられた地域が広く存在した。この点については後にもう一度述べる。

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