光琳かるた
光琳かるた(尾形光琳筆、江戸時代前期)

江戸時代初期、前期(1603~1704)に各種の「源氏物語歌合せかるた」「伊勢物語歌合せかるた」「三十六歌仙歌合せかるた」など、さまざまな歌合せかるた類が成立した。その中では、「百人一首歌合せかるた」が徐々に好まれるようになった。歌合せかるたでは、和歌が肉筆で書かれている「上の句」カードと「下の句」カードを使って遊技するのが通例であったが、「百人一首かるた」では、「上の句」札に歌人の図像が加えられて華やかになり、人気をさらに搔き立てた。文字だけのかるたであれば容易に自分で手作りできるが、歌人絵が入るとなると素人の手には負えなくて京都、二條烏丸に多かった経師屋や扇屋、絵草子屋などに発注して誂えることになる。上流階級の人々からの注文は正保二年(1645)刊の『毛吹草』[1]がいうようにすでに寛永年間(1624~44)にあり、歌合せかるたを制作、販売する商いが成立した[2]

江戸の木版かるた絵
江戸の木版かるた絵(渓斎英泉画、
和泉屋市兵衛板、弘化嘉永年頃)

この時期に、「百人一首かるた」以外の歌合せかるたのカードでは、歌意にちなんだ図像が描かれた。「源氏物語歌合せかるた」や「伊勢物語歌合せかるた」のカードでは、以前の「貝覆」の内側の図像のように、ストーリーに沿った図像が付く例が多く、「古今集歌合せかるた」のカードなどの場合は草花の図像や地模様が好まれた。これに対して「百人一首かるた」のカードの場合は、歌人絵があるのが邪魔になったのか歌意絵図は描かれなかった。後に尾形光琳は「上の句」札に歌人絵、「下の句」札に歌意絵を配するという革新的な考え方に立つかるたを制作したが、それは注文に応じて制作する特注品での冒険にとどまり、一般向けのかるたで試みたものではなく、社会に流通するかるたのカードの様式を変更させるまでの力はなかった。「百人一首かるた」に歌人絵に加えて歌意絵が登場するのは、江戸時代後期(1789~1854)、江戸で安藤広重や葛飾北斎らの浮世絵師によって制作された錦絵風の木版かるた以降である。

江戸時代前期(1652~1704)の歌人絵の付いた「百人一首かるた」で現在残されている物は何点かあるが、その中では、①芦屋市の滴翠美術館蔵の「道勝法親王筆百人一首歌かるた」(以下、「道勝法親王筆かるた」と略記)、②架蔵の「諸卿寄合書かるた」、③白洲正子旧蔵の「浄行院様御遺物百人一首かるた」(以下、「浄行院かるた」と略記)、これと姉妹品の④架蔵の「つくも百首かるた」、⑤京都の時雨殿所蔵の品番4の「百人一首」、(以下、「時雨殿蔵かるた4」と略記)、⑥同じく京都の時雨殿所蔵の品番16の「百人一首」、(以下、「時雨殿蔵かるた16」と略記)、⑦大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵の「古型百人一首かるた」が史料としてとくに重要である。これらのかるたのカードは上の句札の下部に歌人絵が添えられていて、京都の二條烏丸通ないし二條寺町通あたりの絵草子屋か経師屋、扇屋等が手描き、手作りで制作したものである。これに加えて、当時、こうしたかるた屋ないし六条坊門の木版かるた屋で制作されたと思われる、⑧三池カルタ・歴史資料館蔵の「初期版画百人一首かるた」もある。これらのかるたはいずれも江戸時代前期、慶安年間(1648~52)以降で元禄年間(1688~1704)に至る時期のものであるが、そこには江戸時代中期(1704~89)以降今日まで継承されている標準型の「百人一首かるた」とは異なる表現があり、これを「古型百人一首かるた」とすることができる。

近衛家旧蔵百人一首かるた
近衛家旧蔵百人一首かるた・収納箱
(『陽明文庫旧蔵百人一首』)

なお、この時期のかるたの優品として、有吉保は、所蔵する近衛家陽明文庫旧蔵品の「百人一首かるた」を詳細に紹介している。このかるたは慳貪(けんどん)型の外箱に二個の中箱があり、そこに収められている点が「古型百人一首かるた」の収納方法に合っているが、時代が下がる黒漆塗りであり、歌人絵は延宝八年(1680)刊の菱川師宣の版本『小倉山百人一首』の歌人画を手本としているように見えるし、光孝天皇の図像は正しいのだが、陽成院の図像は光孝天皇の図像の繰り返しであり、本来の陽成院の図像とは身体の向きが逆である。つまり、光孝天皇の図像は自分と陽成院として二度登場し、陽成天皇の図像は消滅しているということになる。光孝天皇は陽成天皇が藤原氏に嫌われて十七歳で退位させられた後に五十歳代で予定外に天皇位に就いたという歴史の人物であるのだから、かるたの世界でももう一度陽成院を追放してしまったことになり、皮肉な制作時のミスである。喜撰法師と良暹法師の図像が入れ替わり、謙徳公と大納言公任の図像が入れ替わっている。大貮三位は自身の和歌のカードと共に待賢門院堀河の和歌のカードでも、顔の向きこそ違うものの脇息(きょうそく)にもたれるお得意のポーズで登場して二度目のお勤めである。前大僧正慈圓の図像は、脇息(きょうそく)にもたれる僧侶という独自の姿である。このように軽率な転写ミスが多い。また、歌人名や和歌の本文の書を見ると、「権中納言敦忠」「大僧正行尊」「権中納言匡房」「従二位家隆」であり、三條院は「うきよ」、源俊頼朝臣は「山おろし」、俊恵法師は「明やらで」と、同じ菱川師宣の延宝六年(1678)刊の『百人一首像讃抄』(以下、『像讃抄』と略記)の表記そのものである。そして決定的なのが、上の句札と下の句札で地紙が同一のものであることと、裏紙が金裏紙であることである。いずれも『像讃抄』後の元禄年間(1688~1704)以降のかるた流行の様式である。したがって、このかるたについて有吉は「裏は金箔、筆者、絵師ともに不明であるが、寛文頃かと推定する」[3]とするが、制作の時期は元禄年間(1688~1704)以降であるし、歌人絵も歌人名や和歌の書も「古型」に合致しない制作ミスが多い江戸時代中期(1704~89)型の一般向け商品であり、上記の八点と並ぶ江戸時代前期のかるたとして考慮に入れることはできないし、皇室周辺や大名家に伝わるのがふさわしい高級品とも判断できない。

『小倉山百人一首』 序文・後記
『小倉山百人一首』 序文・後記
(菱川師宣、延宝八年)
近衛家旧蔵かるた
近衛家旧蔵かるた
(右・陽成院、左・光孝天皇・
実は光孝天皇の一人二役、江戸時代前期)
『百人一首像讃抄』
『百人一首像讃抄』(江戸時代前期)
黒田家旧蔵百人一首かるた
黒田家旧蔵百人一首かるた
(右:三池カルタ・歴史資料館蔵、 江戸時代前期、左:近衛家旧蔵かるた)

なお、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館には、福岡県の大名、黒田藩の藩医の家に伝わった美麗な百人一首かるたがある。これと有吉が復刻した近衛家伝来品とを比較すると、図像のスタイル、歌人名、和歌の書の書風などが見事に一致しており、元禄年間(1688~1704)の後期か江戸時代中期(1704~89)の初め頃に京都にあった同一のカルタ屋で制作されたものとみて差し支えないが、図像の巧拙、丁寧さに顕著な違いがあり、三池カルタ館蔵のものは、歌人の表情が美しく、衣裳から持ち物、上畳の縁に至るまで金銀彩が豊富に使われていて格段に華美である。百人一首かるたを美しさでランク付けすることには学術上はあまり意味がないが、有吉が、近衛家の名前も併せて、日本のカルタの美しさを代表できる日本一美麗な品としたので付言しておくが、私は、これまでに見た歌人像付きの百人一首かるたの中では、この三池カルタ館蔵品が格段に美麗で、最も高級で美しいかるたであると判断している。このかるたは、藩医クラスの家で購入して持てるものではなく、大名家の黒田家そのもののものであったと思われる。それが傷一つなく完品で侍医の家に伝わっていたのは、想像しかできないが、黒田家の奥方様かお姫様の難病を快癒させ、特別のご褒美として下賜されて家宝として伝わったからであろう。もしこれを横綱とすれば、失礼な表現になるが、陽明文庫蔵品は関脇、小結クラスであろうか。江戸時代、大大名の黒田家の豊かな財力と、公家の筆頭、近衛家の家計の厳しさとの違いが如実に表されていると思う。

また、元禄年間(1688~1704)の末期か後続の宝永年間(1704~11)の作と考えられているものに、滋賀県の旧家旧蔵の「尾形光琳かるた」がある。これは、光琳が歌人像付きのかるたの革新を志して制作した力作であり、「古型百人一首かるた」の図像の特徴は払しょくされているという意味で、「古型」のかるた時代の終わりと新しい「標準型」のかるたの時代の始まりを告げる歴史的な価値があるが、これもまた江戸時代前期(1652~1704)の作品とは言えないので、ここでは参考品として検討したい。


[1] 松江重頼「毛吹草」加藤定彦『初印本毛吹草影印篇』、ゆまに書房、昭和五十三年。同『毛吹草』岩波文庫、昭和十八年。

[2] 松村雄二『百人一首定家とかるたの文学史』、平凡社、平成七年、はかるたについて語っているが昭和期の既出の情報の祖述の域を超えていない。

[3] 有吉保『陽明文庫旧蔵百人一首』、桜楓社、昭和五十七年、一頁。

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