すでに本章の冒頭部分で扱ったように、「いろは譬えかるた」は児戯の具であると判断したとき、鈴木はもう一つ大きな誤解をしていた。鈴木は昭和四十八年(1973)刊の『今昔いろはかるた』[1]で、「いろはかるた」の前身は諺をいろは順に整序しないままに収録した「譬え合せかるた」であり、それが江戸時代(1704~89)の終わりにいろは順に整序されて「いろは譬えかるた」に変身したという「変身」説を示した。鈴木にとって「いろはかるた」は子どもの遊技具であり、大人向けの「譬え合せかるた」は消滅しているはずだ、ということになる。

鈴木はそこで、近世文学の研究者らしく、江戸時代中期(1704~89)の末期、天明年間(1781~89)に流行した「いろは短歌」に注目して、これが触媒になって「変身」が実現したという筋道を考えたのである。

この鈴木の変身説が誤りであることは今日では明白になっている。諺研究者の北村孝一が、江戸時代後期(1789~1854)の文献史料を研究する中で、大人向けの「譬え合せかるた」がこの時期にも江戸や上方で「いろはかるた」と並行して遊ばれていたことを突き止めた[2]からである。変身ではなく共存が起きていたのである。

さらに、私は明治年間(1868~1912)の「譬え合せかるた」のカードを発見して蒐集している。つまり、「譬え合せかるた」が「いろはかるた」に変身したのではなく、「譬え合せかるた」という遊技のジャンル中の新企画商品として、「譬えをいろは順に揃えてみました、だいぶすっきりしたでしょう」という「いろは譬えかるた」のカードが売り出されて人気商品になったが、「譬え合せかるた」のカードも明治年間(1868~1912)までは見捨てられることなく遊ばれていたということである。

「いろはかるた」は多彩に存在していて、大人の遊技具でもあったのだから、前代の「譬え合せかるた」の遊技やそのカードが残存していることも想定できたはずであるが、鈴木がそのように考えられなくて目の前の史料を見逃したのは、「地口かるた」の成立を認めずに、「いろは譬えかるた」以外の「いろはかるた」、とくに大人の女性向けの娯楽用品であったさまざまなかるたを無視したことと並ぶ、もう一つの認識の誤りである。

こうした鈴木の「もう一つの勘違い」は、鈴木に学恩を感じると自慢する吉海によって継受され、拡大再生産されている。吉海は北村の研究には接しているはずなのにそれを無視して、数十年前の鈴木の旧説のままである。だが、吉海の「譬え合せかるた」「いろは譬え合せかるた」交代説は、そもそもの前提となる鈴木の認識が北村よって史実の展開に反していることが明らかになったのであるから、いわば鈴木由来の主張は賞味期限切れであり、ポスト北村の平成年間の学界では議論に値しない。


[1] 鈴木棠三、『今昔いろはかるた』、錦正社、昭和四十八年、四五頁。

[2] 北村孝一「『たとへかるた』の流行と衰退」「第11回ことわざフォーラムプログラム」、ことわざ研究会、平成十一年。

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