次が問題の第三の文節である。ここでは、二種類の遊技法を説明している。『雍州府志』は京都の名産品を紹介しているのだから、カルタの説明は第二文節で終わっても良かったのであるが、黒川道祐はしばしば脱線して名産品紹介以上のことを書き加えており、それは同書の社会史史料としての価値を飛躍的に高めている。この第三文節もそういう脱線の一つで、そのおかげで今日でも江戸時代前期のカルタ遊技の実際を知ることができるのである。他にこれほど詳細に江戸時代前期のカルタの遊技法を書いた文献史料は見つかっていない。

カルタ遊技図
カルタ遊技図
(上:歌かるた、左下:読みカルタ、
右下:かぶカルタ)(「邸内遊楽図屏風」、
京菓子資料館蔵)

その中で、冒頭の一文は「其玩之法、其始三人或五人圍坐、其内一人左手取持賀留多、以裏面上下混雑、不見其畫配分而置各々之前、是謂切賀留多。」であり、二種類の遊技法に共通する遊技者数、ゲーム開始前の札の切り方、配分の仕方を説明し、その次に「讀(ヨミ)」(以下では「読み」と表記する。)と「合(アハセ)」(すでに冒頭で断ったように「合せ」と表記する。)という二つの遊技法を紹介している。この第三文節は、後続する第四文節で「カウ」「ヒイキ」「うんすんカルタ」という遊技法を博奕の戯れとして切り捨て、第五文節で今度は逆に、カルタの札を使った「歌賀留多」の遊技法を詳述する流れに繋がっている。こうした記述の全体的な構造をしっかりと把握しておきたい。

『雍州府志』の第三文節の記述の中で「合せ」に言及した部分について、かつて山口吉郎兵衛『うんすんかるた』[1]は次のように解説した。「(二)合せ 記載簡単過ぎてよくわからぬが、手札と場札とを合せる意味であろう。『其紋之同じき者を合す』とあるけれども、紋標は同じものが十二枚もあるから、数の同じきものを合せるの間違いではあるまいか。若しそうとすれば此技法はメクリカルタとして後年読みカルタに代って大いに流行した。現代の『花合せカルタ』は此技法を伝えている」。これが私の言う誤記説である。この説は、昭和年間末期、私が日本のカルタ史の研究を深めていた時期の研究者世界には、誰一人異議を申し立てない通説として君臨していた。だが私は、これに疑問を抱き、たった一人で異論を唱えた。私が主張したのは、『雍州府志』の文章は、これを素直に読めば「めくり」カルタのようなフィッシング・ゲームを誤記したものではなく、「合せ」と呼ばれたトリック・テイキング・ゲームの正しい説明として理解が可能であるという説である。そしてその後に、研究室が論争に参入して、江橋説こそ誤読しているという逆批判を開始したという展開になる。以下で、まずは私の読み方を説明しよう。

最初に確認しておくが、トリック・テイキング・ゲームでは、一組四十八枚の札をすべて遊技者に配分し(半端が残る場合は脇に除けておく)、各人がその手札から一枚ずつを打ち合い、これを英語でトリックと表記するが、打たれた中で最強の札を打った者がそのトリックの札を獲得し、各人に配分された札の枚数分だけトリックを繰り返し、各人が獲得したトリックの数、つまり獲得した札の多寡で勝敗を決めるゲームである。何が最強の札であるかと言うと、そのトリックの出親が最初に打った「紋標」の札に合わせて他の遊技者からも合せ打たれた同じ「紋標」の札の中で「紋標数」が最高の札であり、他の種類の「紋標」の札を打った場合は、「紋標数」では高位の札であってもそのトリックでの「紋標」の札で「紋標数」が低位のものであっても負ける。ただし、「切り札」がある遊技法もあり、その場合、打たれた「切り札」は「紋標数」が低位であっても他の「紋標」の札に勝る。

トリックを繰り返した後の、獲得した札の多寡の判定はいろいろで、獲得したトリックの数掛ける人数分である獲得した札の枚数の多寡、獲得した札の各々に付いた点数の合計の多寡、獲得した絵札の数の多寡、絵札に付いた点数の多寡などで判断される。判定の方法が多様なのは、時代によって人気の遊技法に変遷があるからであり、ここに挙げたものは、例えば江戸時代前期のような一時期に揃って存在していたということではない。

これがトリック取りの遊技、トリック・テイキング・ゲームである。カルタが日本に伝来した十六世紀の後半、十七世紀の前半の世界では、このトリック・テイキング・ゲームが大流行していて、三人で遊技する「オンブル(レネガド)」は世界で最も人気のある遊技法であった。しかし、トリック・テイキング・ゲームでは、遊技する参加者の数は三人に固定されるようになる以前は、四人ないし五人で行う遊技法もある。六人以上が参加する遊技法は知られていない。今日熊本県人吉市に伝承しているうんすんカルタ[2]では「六人メリ」や「八人メリ」の遊技法があるが、これは使用するカルタ札の一組の枚数が多い(うんすんカルタは七十五枚)場合の遊技法であり、一組四十八枚のカルタでは六人以上では遊技がしにくい。

一方、山口が指摘した「紋標数」の同じものを合わせ取る「めくりカルタ」では、札は「場六、手七」で配分される。場に展開される場札が六枚、参加者に配分される手札が三人の遊技者の各人に七枚ずつである。残りの二十一枚は裏面を上にして場に積まれる。これを山札という。ゲームの基本は手札を一枚出して同じ「紋標数」の場札を釣り取り、山札を一枚めくって同じ紋標数の場札があればそれも釣り取るのである。手札を出しても釣り取ることのできる同じ「紋標数」の場札がないときは手札を場に残して場札とする。めくった山札の場合も同じように合う札がなければ場札にする。ゲーム開始時の場札六枚の中に同じ「紋標数」の札が三枚出ている時は、それと同じ「紋標数」の四枚目の札を手中に持っている者はその一枚を出すことで三枚全部を釣り取ることができる。四枚目を山札から引き当てた場合も同様に扱う。三人の参加者が各々七枚、三人合計で二十一枚を出し、その度に山札を一枚めくるのである。山札は二十一枚、これに最初の場札六枚を加えると全部で四十八枚になり、一組のカルタを余すところなく使うことになる。この構成は、十八世紀、江戸時代中期 (1704~89)の「めくりカルタ」から二十一世紀、現代の「花札」まで変化していない。

こうした「めくりカルタ」タイプの遊技法は、日本で独自に創造されたもので、欧米の研究者は強い関心を示し、手札で場札を釣り取ることからフィッシング・ゲームと呼ぶようになった。フィッシング・ゲームの母国は日本ということになる。手札をおとりの生きた鮎のように扱って川の中を泳ぐ同類の鮎のような場札を釣り上げる「友釣り」という感じであろうか。なるほど確かにフィッシングに似ている。

『雍州府志』の文章の読解に戻ろう。まず、最初の一文、「其玩之法、其始三人或五人圍坐、其内一人左手取持賀留多、以裏面上下混雑、不見其畫配分而置各々之前、是謂切賀留多。」である。これは極めて明快で、カルタは最少三人、最多五人で囲んで座って遊ぶ遊技であり、一人が左手に全部のカルタ札を持って、裏面を上にして右手でよくかき混ぜて、表面の図像を見ないで全部の札を各人の膝の前に配分するというのである。これは次に述べる「読み」と「合せ」に共通する、遊技への参加者の数、ゲーム開始前の札の扱い方の説明である。

ここに、参加する人の数は三人から五人と記されている。のちの時代には、二人で行うカルタの遊技法も開発されたが、日本のカルタの遊技法は伝統的にこの人数が基本である。ただし、「めくりカルタ」の場合は、四人以上が参加する場合はカルタ札を配分されたメンバーの中で、手札があまり有力でないと判断した者は「抜ける」「降りる」「寝る」「見(けん)に回る」などと宣言して配分された札を場に戻して山札とし、残る三人のメンバーが参加する。一方、『雍州府志』の説明では何の限定もないのだから、これは三人でも、四人でも、五人でも参加できるタイプの遊技を想定した文章である。これを、三人から五人の間であれば何人でも遊技できる「読み」と、必ず三人で遊技する「めくりカルタ」タイプのフィッシング・ゲームの遊技法の異なった札の配分方法を一緒にして説明していると理解することは困難である。誤記説は早くもこの単純明快な札の配布法に関する文章で説明困難に陥る。果せるかな山口吉郎兵衛はこの自説ではうまく説明できない文章を無視して説明を回避している。後続した誤記説の論者も皆が同様に素通りしている。

次に、カルタ札の配分の方法は、裏面を上にしてよく混ぜて、表面の図像を見ないで配ると書かれている。時計回りに配るのか、反時計回りに配るのかは分からない。また、配り方は、一枚ずつ配るのか、これだと時間がかかるので例えば三枚程度を一まとめにして配るのかも分からない。延宝六年(1678)刊の畠山箕山『色道大鏡』[3]では一度に三枚ずつ配分すると書かれているが、同じであろうか。

ここで誤記説が言うように、もし十七世紀、江戸時代前期(1652~1704)に後の時代の「めくりカルタ」の前身、「プロトめくり」が実在していて、黒川道祐はそれを説明しようとしていたのだとしよう。そうすると、札の配分の仕方では「プロトめくり」は「めくりカルタ」と同様であったと推測されるから、場札は図像が分かるように表面を上にして配るという手順があったはずである。そうだとすると、黒川は、「ゲーム開始時に「読み」ではすべての札を配分してしまうが、「合せ」では「場六、手七」で、手札は裏面が上、場札は表面が上で配分するのである」と、「読み」と「合せ」では配分の方法が異なることを説明したはずである。だが、黒川は、カルタでは裏面を上にしてすべての札を配分して始めると書いており、そこには遊技法の「読み」と「合せ」による違いは記載されていない。そして、それに続けて、すべての札を配分して始めることに疑問のない遊技法である「読み」の説明に入り、その先で配分法の違いに触れることのないままに「合せ」の説明に続けている。こうした文章の構造であるので、これは「読み」と「合せ」で札の配分が同じことを意味している。これを、札の配分方法が異なることを暗黙の前提にして説明した文章であるとは到底読み取れない。この記述だけでも「合せ」が「プロトめくり」の遊技法の説明だと理解することは困難である。山口吉郎兵衛に始まる誤記説はこの部分も素通りである。

次に、配分される札の表裏の問題がある。「プロトめくり」の配分法であれば、当然に「七枚を裏面を上にして手札として各々の前に置き、六枚を模様が分かるように表面を上にして場に晒して場札とする」と書かれなければならない。ところが『雍州府志』は札の表面の図像を見ないですべての札で裏面を上にして配分するという札の配布方法だけを書いている。「読み」の遊技法での配分方法とトリック・テイキング・ゲーム系の「合せ」の遊技法での配分法が同じものであると説明しているのであり、これをまるで配分法が異なる「プロトめくり」タイプのフィッシング・ゲームの遊技法まで念頭に置いた記述であるとは読めない。誤記説はこれも無視である。

なお、今日に伝わるトリック・テイキング・ゲーム系の遊技法に、遊技の開始時には各人に四、五枚に限定して裏面を上にして札を配分して遊技を始め、途中で同じく裏面を上にして札を追加配分するルールのものがある。『雍州府志』の「合せ」がそういうタイプの遊技法であるならその旨を書き残したであろう。ゲーム開始時の配分枚数について何の限定も書かれていないので、トリック・テイキング・ゲームの中でもゲーム開始時の配分枚数を限定するこういうタイプの遊技法ではなさそうである。

このように、第三文節の文章は、最初の一文ですでに、ここでは「プロトめくり」タイプの遊技法は扱わないことが明確に示されているのである。私は、誤記説がこの文章の読解を示さずに、後続する文章中での「紋」という表記は「數」の誤記であるという一点だけで自説を構築していることに基本的な不満があった。その疑問は今でも継続している。私の読んだ限りでは、この札の配布に関する説明の段落ですでに「プロトめくり」だとする説は破綻していると思われる。この部分の合理的な説明抜きに先に進むことには意味がない。

なお、黒川道祐は、ゲーム開始にあたってカルタ札を交ぜることと配分することを合わせて「これをカルタを切ると言う。」と説明している。「切る」には一塊の物を切断して分配するという語義があるから、一組のカルタ札を配分する動作の言葉としてはこれで良い。


[1] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、三八頁。

[2] 『ウンスンカルタの遊び方』、人吉市教育委員会、昭和四九年。

[3] 畠山箕山『色道大鏡』巻七、『続燕石十種第二』、國書刊行会、明治四十二年、五五八頁。

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