賭博遊技カルタ
賭博遊技カルタ
(左:めくりカルタ、右:かぶカルタ、
いずれも幕末期)

黒川は第四文節でさらに別の遊技法の説明に進み、「或又謂加宇、又謂比伊幾、或又謂宇牟須牟加留多、其法有若干畢竟博奕之戯也。」と書いた。「あるいはまたかうと言い、またひいきと言う。あるいはまたうんすんカルタと言う。その遊技法が若干あるが、ひっきょう、博奕の戯である」と読む。「かう」と「ひいき」が一つの「或」で括られ、次にもう一つの「或」で「うんすんカルタ」が説明されているので、「かう」「ひいき」はほぼ同類、「うんすんカルタ」は少し違う種類という区別をつけているように見える。いずれについても遊技法の内容の具体的な説明はまったくない。黒川は博奕色が強い遊技法は嫌っていて説明を面倒がっているのか、あるいはこの世界に足を踏み入れたことがなくて単に知らないだけなのか、「その遊技法が若干ある」という言葉以上の説明を拒否している。

博奕系のカルタの遊技法では、参加者の数も三人から五人に限定されない。遊技に際しての札の配分の方法も異なる。つまりそれは、第三文節冒頭の、カルタの参加者数、ゲーム開始時のカルタ札の扱い方に関する説明の範囲外の遊技である。黒川は「畢竟、博奕の戯である」と書いていて「畢竟、博奕の具である」と書いてはいない。遊技法の説明をしていて「読み」「合せ」に続ける部分であるからこれで良い。そうすると、黒川は「読み」や「合せ」に使うカルタの札で、カルタの遊技とは認めがたい「かう」「ひいき」「うんすんカルタ」の遊技をしていると説明していることになる。当時の呼称でいえば「松葉屋カルタ」や「ほてい屋カルタ」である。「かぶ」系の博奕専用の「きんご札」の類はまだ考案されていなかったようである。あるいは、「きんご札」は知っているが、「博奕の具」であり京の名産品の紹介にはふさわしくないと考えて無視したのかであろうか。

ここで想起されるのが、貞享四年(1687)刊の井原西鶴『懐硯』[1]の「照(てら)を取(とる)昼船(ひるぶね)の中(うち) 祈(いの)れどきかぬかるた大明神(みようじん)の事」である。話は淀船の客同士が「ほてい屋骨牌」の使い古しで「読み」を始め、座が徐々に加熱して行き、「カブ」系の「アトサキ」になり、「三番撒き」になる展開であるが、使用されるカードは「読み」の遊技でも「カブ」系の遊技でも同じ「ほてい屋骨牌」のままである。『雍州府志』と同時代の作品中での描写であり、参考になる。

これらを考え合せると、黒川は、「カウ」「ヒイキ」「うんすんカルタ」の遊技を、たまたまカルタ札を使うけれどもカルタの遊技ではなく、骰子賭博のような博奕の一種と見ていたようである。カルタ遊技として認めないのであるから、参加者数、札の配り方、遊技の進行、勝ち負けの決定法などについては全く説明する気がなさそうである。「歌かるた」の遊技法の説明の中で、「歌かるたの札を用いる『坊主めくり』という遊技もあるが、ひっきょう児戯であって、和歌のかるたの遊技には含まれない」としているようなものである。将棋でいえば、その遊技法の解説書で、「『回り将棋』はひっきょう児戯であって、将棋の遊技法には含まれない」と言って具体的な遊技法について全く言及しないようなものである。それならば、何も名産品の「賀留多」を扱う文章の中でこれに言及することはなく単に無視すればよかったろうにとも思うが、これが黒川道祐流の脱線表記らしいところで、結果的には江戸時代前期の遊技事情がいっそうよく分かってありがたい。

なお、ここで黒川は「かう」「ひいき」「うんすんカルタ」に触れるが、当時はもっとも盛んであったであろう「きんご」カルタという遊技法には触れていない。黒川はこの遊技法を知らなかったとは思えないが、「かう」や「ひいき」に触れるのであればここに「きんご」と並べてもよいのに、なぜ書き漏らしたのか。もしかしたら「ひいき」は「きんご」の別名であったのか、あるいは当時はこの遊技が「うんすんカルタ」と呼ばれていたのか。あるいは「三枚」が当時の「きんご」の別称であるところ、それを書き忘れたのか。想像は様々に可能だが、いずれも論拠が見つからない。「きんご」については不詳としておきたい。


[1] 井原西鶴「懐硯」『対訳西鶴全集』五、明治書院、昭和五十年、一五三頁。

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