(五)生き残った賭博系カルタ

寛政の改革による抑圧にもかかわらず、日本社会では賭博カルタの文化は大いに栄えて、爛熟の様相を示していた。江戸時代初期(1603~52)からの正統のカルタ遊技は京都、六条坊門のカルタ屋が制作する木版の賭博系カルタを使うものである。このカルタは寛政の改革における取締り強化の主要なターゲットであったのだから一時はひっそりとなってしまったし、正規の販売が禁止されたことも打撃であった。文芸作品中で取り上げられることも少なくなった。だが、文化、文政年間(1804~30)にはすでに勢いを取り戻し、生き残ることとなった。京都のカルタ屋も表向きは自粛しているがなお盛んに賭博カルタを制作し、全国に販売していた。

一方、江戸から生じた「めくり」や関西の「てんしょ」の遊技は、寛政年間(1789~1801)の抑圧の後も盛んに用いられ、全国に普及した。寛政年間は地下に潜っていたようであるが、その後、文化文政年間(1804~30)になると再び表面化し、天保の改革で再度厳しく抑圧されたにもかかわらず、その後も活発に用いられて幕末期には社会の混乱に乗じて大きく流行した。以前に唱えられていためくりカルタは寛政の改革で禁止されたのでそれに変わって「花札」が登場したという説は、「花札」の発祥期がはるかに以前であったことを理解できなかった誤解ですでに致命的に否定されるのだが、めくりカルタに関しても、江戸時代後期(1789~54)の取締り記録で実例を見れば、カルタ賭博で捕まった膨大な事例のほとんどがめくりカルタの事例であり、処罰を免れた暗数を考えればどれほど流行していたのかは容易に理解できるのであり、ほとんど全く存在しない「花札」博奕での捕り締まりを仮想したことも併せてまったくの調査不足、研究不足による誤解であったと言わざるを得ない。また、この時期の記録を見ると、めくりカルタは江戸時代中期(1704~89)、寛政の改革以前のように素人が家族、友人と楽しむ遊興の賭博遊技ではなく、博徒が組織する大規模な博奕として展開されることが多くなったことも分かる。

三枚カルタ遊技図(『本朝二十不孝』、貞享三年)

だが、本格的な博奕場では、めくりカルタよりも、一度に多人数が参加できて、勝負が単純でスピーディーな遊戯法の「カウ」、「オイチョカブ」が好まれた。これは配布されるカードの数の合計を競う遊技で、合計が「九(かぶ)」であるのが最高で、「八(おいちょ)」がそれに次ぐ。絵札は「零(ぶた)」として扱われた。手にできる札は三枚までであり、「三枚」「三枚カルタ」とも呼ばれた。同じく三枚ずつ配って、目数が高い方が勝ちで低い方が負けという遊技法も「三枚」と呼ばれていた。なお、『ものと人間の文化史173 かるた』では、貝原益軒の『教訓世諦鑑』の記述を基に「三枚」を説明している個所があるが、信頼性に欠ける文献史料を使ったのは、手近なものを安易に利用した私の失敗であり、反省するとともに訂正して削除する。

こうした遊技では、当初は読みカルタやめくりカルタのカードを用いていて、取締りの記録上はめくりカルタの博奕と表記されることが多かった。ごく稀に「キンゴ」と正確に記入している例もある。こうした賭博系のカルタでは京都製のものが市場で優位にあり全国各地に出回っていた。本格的な「張抜き」、「縁返し」の技法で作られたカルタでは、京都製のものに敵うところはなかったのである。記録類を見ると、商売で上方に行った商人が帰途に仕入れて持ち帰った事例や、やってきた行商人が持ち込んできた事例や、上方からの荷物を運搬する船の船頭などが運搬してきた事例などがある。中に数件見えるのが、飛脚が持ち込んだという記録である。飛脚の副業にもなっていたようである。