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(三)近代に残った「てんしょカルタ」の遊技

今日、江戸時代中期(1704~89)の上方にあった「てんしょ(合せ)」を解明するうえで一番頼りになるのは、大正年間(1912~26)以降の警察・検察当局の資料と、現代まで残っている遊技法そのものである。これらを参考にすると、「てんしょ(合せ)」は、参加者がゲームの開始時に配られた数枚のカード(手札)を一枚ずつ順次に出して、場に出ている同じ紋標数のカード(場札)と合せ取り、もし同じ紋標数のカードが曝されていない場合は手札一枚を場に捨てて、次に、場の中央に裏面を上にして積まれているカード(山札)の最上部のカードをめくって、もし場に同じ紋標数のカードがあればそれも合せ取るがなければ場に捨てる、という作業を順次におこない、獲得したカードの点数の多寡を争う遊技である。これは、広くいえばマッチング・ゲームの一種であるが、手札で場札を釣り上げることからフィッシング・ゲームと呼ばれている。このフィッシング・ゲームは、他国には例が少なく、日本に固有のものであり、欧米の研究者は、フィッシング・ゲームの母国は日本と考えている。

しつこく書くようだが、フィッシング・ゲームには、参加者がお互いの手札を奪い合うという性質はない。自分の順番、手番を待ち、場に展開されている無主の札の中から自分の手札で釣り取れるものを引き取ってくる。他の参加者と奪い合ってその所有物を獲得するというよりも、自分の順番を静かに待って、その瞬間に公共の場に展開されていて、誰の所有物にもなっていない財を収穫する。手札に合った場札を釣り上げるという性格は、基本的には釣り合った二枚の札を合せ取る日本固有の絵合せかるたの遊技法の発展した形態である。場という公共空間に存在している無主の富である場札、裏返されていて内容は分からないがやはり公共空間に存在している無主の富である山札、そして、事情があって遊技者が手札としての所有を放棄して場に捨てたので無主になって公共空間に存在している札、こういう無主の札の中で価値あるものをだれが入手するかというのがこの遊技の文化であり、「合せカルタ」の様に、相手の手中にある富を奪い取って自分のものにするという略奪の文化ではない。

ここに、日本の遊技文化の基本的な性格が顔を出している。新来のカルタの文化も、結局はこういう日本伝統の文化の中に溶けてゆく。こうした日本文化のありようへの理解は、江戸時代のカルタを論じる際の基本であろう。「合せカルタ」の「合せ」には競い合い、戦い合い、合戦の戦国人の文化のニュアンスがあり、「てんしょ(合せ)カルタ」の「合せ」には、釣り合い、見合い、合体、合力、合作、農耕民の文化のニュアンスがある。

菅原の役札(上段・表菅原、下段・裡菅原)

そして、ゲームの勝ち負けは、釣り上げた札の枚数ないしその組み合わせで決まった。その際には、「見立て」が鍵である。武者合せかるたであれば、特定の合戦で競い合った者同士と見立てられる札とか、激しく戦った関連性のある武者と見立てられる札を集めた場合に褒美が付き、後に役となる。能合せかるたや狂言合せかるたであれば演目が類似していたり、演者が同類であったりしたときにそれを「見立て」て役にする。草花合せかるたでは、季節の代表的な草花を集めた場合や、源氏物語などの筋書きを思い起こさせるようなストーリー性に富む組み合わせになったものを「見立て」て役にする。こうした役は、遊技を繰り返しているうちにどこかのグループで考案され、それが他のグループにも普及するような形で広まり、定着したものであろう。草花合せかるたで、松の札、梅の札、桜の札を集めれば、梅王丸、松王丸、桜丸が人気の菅原伝授手習鑑にちなんで「すがわら」という役にする。生き物札三枚の場合は「表菅原」であり、短冊札三枚の場合は「裡(うら)菅原」である。武者合せかるたで、源義経の札、佐々木高綱の札、梶原景季の札が集まれば「宇治川」という役にする。源義経と平教経であれば「壇ノ浦」という役にする。狂言合せかるたで、酒で失敗する舞台の役者を集めれば「酔者」にする。これがフィッシング・ゲームとしての「絵合せ」かるたの発祥だと思う。

宇治川(佐々木、梶原)の役札(『雨中徒然草』)

だが、こういう見事な役がいつもできるわけではない。獲得した札の枚数で勝ち負けを決めるのも単調である。そこで、かるたの札に固有の点数を付けて、役ができなければ獲得した札が帯びている点数の合計の多寡で勝ち負けを決めるようになる。あるいは、両者を併用して、役の点数と札の点数の合計で計算する。ここに、かるたの札に固有の点数を付けるという日本式のかるたの特徴が生まれた。一般に、欧米のカードでもアジアのカードでも、個々の札に、ゲームの展開上で点数が付くことはごく普通にあるが、日本の花札の「松に鶴」はいかなる場合でも二十点、「松に短冊」は五点、「松だけ」は一点ないし零点というように生まれてから死ぬまで生涯変わらない点数が、いわば身分の様に個々の札に付着している例は少ない。零点の札は「スベタ」とか「カス」と蔑視され、いつになっても零点である。この身分から脱出することはできない。これも日本式かるたの大きな特徴の一つである。

この日本式のフィッシング・ゲームを、海外から伝来した系統の天正カルタ札で遊ぼうとしたのが、上方に発祥した「てんしょ(合せ)」の遊技法であり、それが江戸に入ってめくりカルタに発展した。だから、「てんしょ(合せ)」を「プロトめくり」と呼ぶこともある。ところが、この遊技法にはもう一種、別のかるたが使われることがある。それが「花札」、当時の呼称では「武蔵野」であり、明治年間(1868~1912)の前半期には、めくりカルタよりも有力に使われるようになった。そこで明治年間(1868~1912)の物知りは、「てんしょ(合せ)」が明和年間(1764~1772)に江戸で「めくり」になり、それがさらに寛政年間(1789~1801)以降に「花札」の前身「武蔵野」の遊技法になったと考えるようになった。この説は、史料的な根拠に欠ける歴史の誤解であったのだが、最初に唱えたのが明治時代後期(1903~1912)に日本の玩具史で最高の権威者であった、玩具博士、清水晴風であったために広く受容されて、その後、現職の裁判官で賭博史の研究者であった尾佐竹猛や、風俗史研究の第一人者であった宮武外骨らに支持されて長く研究者の世界に君臨した。しかし、今日では、この説は史料的に根拠がない後世の妄想の産物として排除されている[1]

だが、この謬説の悪影響は残っている。というのは、花札の発祥がめくりカルタやてんしょ(合せ)カルタの発祥の時期よりもはるかに遅いということがめくりカルタやてんしょ(合せ)カルタの発祥に関する理解の大前提とされていたのであるから、それが崩壊したとすれば、後者のカルタの発祥に同時代の花札の遊技が影響しているのではないかという疑問が生じるし、後者のカルタの歴史像も又変更を余儀なくされるのに、それができないで、花合せかるたの本店では販売できなくなっためくりカルタ代用品説という古い欠陥商品をめくりカルタ支店やてんしょ(合せ)カルタ支店ではなお売り続けるという奇妙な事態が発生しているのである。

誤謬説の支持者からすれば、花札はめくりカルタよりも後になってから考案された代用品と考えていたのであるから、めくりカルタの発祥に花札が影響したとは考えられない。まして、江戸時代中期の「てんしょ(合せ)」カルタの発祥と花札を関連付けることなど、まったく考えが及ばない。そのために、花札の誤謬説の支持者は、自説を破壊する確たる史料の出現でその誤りが明らかになり、自説の撤回に追い込まれても、あるいは撤回の不名誉を嫌って沈黙するようになっても、めくりカルタの発祥、てんしょ(合せ)カルタの発祥については、花札は後世の産物だから関係しようもないという副次的な誤謬説を一向に改めないという奇妙な歴史像に陥るのである。これが、今に残る誤謬説の副作用である。

上方発祥の「てんしょ(合せ)」が江戸で「めくり」になったのは多くの史料に明らかである。一方、「てんしょ(合せ)」と「武蔵野」の関係は、両者が共に上方の発祥であり、「てんしょ(合せ)」は主として獲得したカードの点数の多寡を争い、「武蔵野」は主として獲得したカードの組み合わせによる「役」の成否を争うという重大な相違点はあるものの、フィッシング・ゲームという構造それ自体は共通しているので関係があると思われるが、両者の関連性を示す史料がなく、解明できていない。唯一確実なのは、江戸でめくりカルタが発祥するよりも以前に、上方に「てんしょ(合せ)」カルタの遊技法と「花合せ」カルタの遊技法が共存していたという事実である。そして、両者に共通するフィッシング・ゲームという遊技法の性質は絵合せかるたの遊技を一組四十八枚のカードで実現しようとする進化系の絵合せかるたであるので、母体である絵合せかるたの雰囲気を濃厚に残している「花合せ」かるたの方が「てんしょ(合せ)」カルタよりも祖型に近いように見える。最近になって、元禄年間(1688~1704)後期と思われる百紋標・四百枚の花合せかるたが現れたので、こうした理解の信ぴょう性が高まっている。私は、「てんしょ(合せ)」カルタは花札の遊技法を転移させたものであって、その逆ではないと考えている。

 


[1] 江橋崇『ものと人間の文化史167 花札』法政大学出版局、平成二十六年。