上・蝙蝠龍、下・火焔龍
うんすんカルタ(上・蝙蝠龍、下・火焔龍)

日本に伝来したヨーロッパのカルタには、押しなべて四つの紋標に一枚ずつ、合計四枚、龍の図像が付いたカードがある。それを良く見ると、①「九博蔵品」、②「西沢旧蔵品」、③「南蛮文化館蔵品」、④「明治期木版品」では蝙蝠のような羽を広げた龍の周りに花の模様があるか、あるいはこの花が省略されていて羽を広げた龍だけになっている。これはヨーロッパに残るカードでも同様であり、私はこの羽を広げた龍を「蝙蝠龍」と命名している。この①②③④の四者を「蝙蝠龍グループ」と呼べる。

ところが、⑤「滴翠蔵品」、⑥「滴翠蔵金地」、⑦「滴翠蔵九曜紋」、⑧「すんくん」では龍には羽はなく、花もなく、その代わりに火焔に包まれている。私はこれを「火焔龍」と名付けている。大正十四年(1925)の『国際写真情報』誌に掲載された東京帝室博物館(現東京国立博物館)蔵の「うんすん加留多」[1]も「火焔龍」である。これらは「火焔龍グループ」である。

なお、⑨「シルビア・マン旧蔵品」は蝙蝠龍であるが、その図像は特異で、蝙蝠状の羽を身体の左右両方に広げている龍である。こういう龍の図像は他に例がない崩れ方である。このカルタ札は、全体に図像が丁寧に描かれており、数札には四紋標のいずれにも花の図像が加えられており、「ソウタ」は優美な女性で、「ウマ」の騎馬は正面を向く者もあり、「キリ」は高床に腰掛けた(但し「グル」は箱型)顔立ちの整った武将である。数札では、「ハウの二」の棒は交差式に描かれ、中央のひし形は「ハウ」でも「イス」でも「四」から「九」にまで描かれている。「オウル」の彩色は同心円である。つまり、カルタ札全体としては明らかに「火焔龍グループ」に属するものであるのに、「ロハイ」の札だけが変形ではあるが蝙蝠龍なのである。とても丁寧に制作されていて、収納箱も蒔絵で葵の家紋が入っているので最高級の階級の武家の遊技具であったと思われるが、なぜ龍だけが「蝙蝠龍グループ」とも違う両翼の蝙蝠龍になったのだろうか不思議である。このカルタ札は、時代が大分下って、江戸時代中期、明和、安永、天明年間(1764~89)頃のものと考えられている。この頃になると札の図像の意味合いも不分明になって乱れているということであろうか。

同様に、⑩「大津展示品」も、火焔龍ではあるが、火焔はほとんど鎮火寸前の様に添え物になっており、紋標「イス」と「オウル」ではそのわずかな火焔もなくなって竜が蛇か鰻の様になっている。大津市博物館はこれを江戸時代初期(1603~52)のものと鑑定しているが、図像のみだれぐあいからしてもどう見ても江戸時代中期(1704~89)も相当に後ろの時期のものとしか見えない。

もともと南蛮カルタでは、ヨーロッパ産の遊技具らしくカルタの龍は羽を広げた状態で描かれていて、火炎に包まれた姿で描かれることはなかった。これをうんすんカルタと縁の深い日本の天正カルタで見てみると、初期(1603~52)のものと思われる「 版木硯箱[2]も、中期(1704~89)のものと思われる神戸市の神戸市博物館にある 「天正カルタ重箱」の版木① [3]も、後期(1789~1854)と思われる版木の断片史料[4]も、いずれも蝙蝠龍であり、木版のカルタではヨーロッパからのダイレクトな伝来経路が想像できる。一方、手描きの天正カルタを見てみると、これと対照的に「版木硯箱」と同時期のものと思われる 南蛮美術館蔵の手描きの天正カルタ [5]も、その後の数点のものも、例外なく火焔龍である。中国では、古代には翼をもった「応龍」もいたことはいたがごく稀で、普通は、龍は年齢を重ねた老蛇の化身であり、火焔に包まれて蛇のように天に昇るものであり、蝙蝠のように羽を広げて飛ぶものではない。私は、火焔龍は、ヨーロッパから伝来したカルタの龍の絵を見た東南アジア居住か中国本土居住の中国人が、中国的な常識に翻案して、広げた羽の部分を火焔に変えたものと理解している。

先入観というものは恐ろしいもので、火焔龍に変身した手描きの天正カルタ、うんすんカルタは中国人社会経由の伝来品ではないかと考えて見ると、うんすんカルタで、なぜ、中国の高級官僚風の人物の図像のカード「スン」の方が、七福神などの神の図像のカード「ウン」よりも位が高いのか何となく分かるような気がするし、「ソウタ」に描かれた女性像衣服がおよそ日本にはない中国風の衣装であるとする識者たちの以前からの指摘も納得がいく。『勧遊桒話』の記述は、あながち荒唐無稽と切り捨てるわけにはいかない。


[1] 『国際写真情報』第四巻第一号、国際情報社、大正十四年、口絵。http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0062602

[2] 江橋崇、『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、九二頁。

[3] 山口吉郎兵衛、『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、九頁。

[4] 「天正かるたとうんすん多加留」『美術・工芸』昭和十七年五月号、美術・工芸編輯部、昭和十七年、五八頁。

[5] 『王朝のあそび』朝日新聞社、昭和六十三年、三三頁。

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