ついで、カード上の図像の検討に入ろう。狂言の舞台図については『絵入狂言記』の挿画が基本的な史料になるが、そのうち「狂言絵合せかるた」と共通するものは「悪坊」「麻生」「粟田口」「伊文字」「氏貞(内沙汰)」「伯母酒」「柿山伏」「笠之下(地蔵舞)」「喜参倍(茶子味梅)」「薩摩守」「宗論」「二千石」「末廣」「槌(宝之槌)」「茶壺」「土産山伏(苞山伏)」「釣狐」「脱(抜殻)」「萩大名」「八句連歌」「花子」「武悪」「冨士松」「二人大名」「舟船」の二十五点である。この両者を比較してみると、絵札の一枚一枚は概ね登場人物、衣裳、小道具類が一致しており、江戸時代前期(1652~1704)の舞台の様子がよく分る。刊本の挿絵は墨摺りで色彩がなく描線も硬いが、かるたの図像ははるかに生き生きと人物を描いており、カラフルな衣裳の模様は墨刷りの刊本では得られない貴重な情報になっており、また小道具類もリアリティに富んでいてすばらしい。中に二、三点、刊本とかるたで登場する人物が一部異なり、その曲目に登場する他の役柄の人物が採用されているが、これは、画工が刊本の挿絵をそのまま写したのではなく、手本がもっと別の刊本であったのか、あるいは自身で観覧、取材して画像に仕上げたことを推測させる。ただし、図像の中には大蔵流や鷺流の衣装をまとったものもあり、実見したものが和泉流に限定されていないことを示している。また当時の舞台でもありえない誤った図像と思われるものもある[1]。専門家による精査が必要である。

次に、従来菱川師宣画と目されてきた[2]『絵入狂言記』の挿画は大人の役者が演じている場面を描いていて、髭を生やした役者の姿も多いが、「狂言絵合せかるた」は全体に演じている役者の表情が若々しく描かれていて、せいぜい二十歳代の若者、中にはまだ少年の面影を残しているものも少なくない。髭のある役者は登場していない。この若々しい役者の描写は、若衆歌舞伎の影響が残ったもののようにも考えられるが若衆髷ではなく、単に若々しい表情に描いてあるのである。

ここで想起されるのが兵庫県芦屋市にある滴翠美術館蔵の「道勝法親王筆百人一首かるた」[3]の歌人像がいずれも若々しく描かれていて頬に紅を差していることである。歌人の若々しい表情は、「狂言絵合せかるた」と同時代のものと見てよい。あるいは同一の工房の作であろうか、いずれも姫君と呼ばれるような若い女性向きに制作されたのであろうと思わせるような、気持ちの優しさが感じられるかるたである。

「道勝法親王筆百人一首かるた」については、以前は江戸時代初期、慶長、元和(1596~1624)の作とされていたが、私は、それは江戸時代後期、文政年間(1818~30)末期頃に仕立て直しされた時期に、はなはだ信頼性に欠ける極書を制作して偽装工作を加えたのでそう見えるだけで、実際には時代が下がり元禄年間(1688~1704)に近い江戸時代前期の筆者不明の作であることを突き止めた。なお、このかるたの所蔵者であった山口吉郎兵衛のために一言しておくが、山口は『うんすんかるた』でこれを最初に紹介した際には、付属資料や後世の鑑定書など触れたのちに「元和頃」(1615~24)としている。同書で他に紹介された「歌合せかるた」はことごとくが寛文・延宝年間(1661~81)以降の作であり、このかるただけがとびぬけて古いものということになる。そして、後学者はこの記述を根拠にこの「道勝法親王筆百人一首かるた」を日本最古のものとして疑うことがなかったのである。山口の指摘は軽率であったと思うが、他方で、山口は、同書の「絵合せかるた」を扱った部分の片隅で、「歌カルタの時代鑑別」と題してこうも述べている。「江戸幕府初期には貝覆、外来カルタが上流に玩ばれていたから、その時代の初期歌カルタは製作も少なかったとみえて殆ど伝わって居らぬ。現存最古品とも云うべきものは寛文、延宝頃に顕れた異形品であろう。歌カルタ、絵合せカルタ共に其形が規格型に定ったのは元禄頃からと思われる」[4]。これが山口の基本的な認識であり、「元和頃」との軽率な表記は、十分な論拠なしに鑑定書をむやみに疑うのも失礼なので一応それに従って記しただけのことだったのではないかと考えている。

以上の検討により、この「狂言絵合せかるた」は、曲目の表記は和泉流、図像は諸流派混在のものと判断される。このような構造のかるたはいかにして制作されたのであろうか。この点は史料が少なくて推測に頼らざるをえないが、まず、かるたの職工が和泉流の本家の書庫奥深くに秘蔵されている『狂言六義』などの正本を閲読する機会があったとは思えない。そうすると、曲目の表記が大きく揺れていた江戸時代前期(1652~1704)に、これほど和泉流本家筋の表記に合致できたのはどうしてかという疑問が生じる。現時点で私が考えているのは、かるたの制作者が、特注の一品制作であるので適切な曲目表記を求めて、和泉流の本家筋の誰かに曲目の一覧表をもらって使ったという経緯である。これならば、正しく和泉流本家筋の曲目になったことに不思議はない。若干の曲目の勘違い表記も合点がいく。図像のほうは、すべて実際に観劇して描いたというのではなく、そういう実見に基づく図像もあるであろうが、手元にある手本を写したものが多かったと思われる。そうすると、曲目を教えた者が和泉流の三百に近い曲目をすべて教えてかるたの制作者の側で五十番に絞って選んだとも思えないので、教えた側が五十番に絞って教えて、かるた屋は手本からの引き写しと実見の観察から図像を描いたが、その際に大蔵流や鷺流などの他流派の舞台図も混じったと考えたい。このように推論すると、江戸時代前期(1652~1704)の「狂言絵合せかるた」の制作は、①和泉流中枢の人間によって五十番の曲目が選び出されてかるた屋に教示され、②五十対・百枚のカード上にその曲目の人物の図像が描かれ、③カードの右上部(ただし「仮名札」では五枚、「漢字札」では八枚が左上部)に曲目を書いたことになる。思いがけずに当時のかるた制作事情の一端が見えたように思えるが、いかんせん、史料が足りず、実証性に欠ける話である。


[1] 狂言絵の研究者、藤岡道子の教示による。藤岡には、「描かれた狂言―近世狂言絵画の諸例を見わたす」『聖母女学院短期大学研究紀要』第三十集、同大学、平成十三年、一頁、「芸能の絵画資料の収集―狂言を絵画から読む」『東洋哲学研究所紀要』第二十四号、同研究所、平成二十年、二二四頁、「絵画資料に見る江戸初期の狂言」『能と狂言』第十一号、能楽學会、平成二十五年、四五頁など信頼できる多数の業績があり、参考になる。

[2] 藤岡道子「万治三年刊『ゑ入狂言記』挿絵の諸問題」『聖母女学院短期大学研究紀要』第二十七集、同大学、平成十年、一五頁はこれと異なり、菱川師宣説に懐疑的である。

[3] 濱口博章、山口格太郎『日本のカルタ』、保育社カラーブックス、昭和四十八年。

[4] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一六三頁。

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