江戸時代前期(1652~1704)の「舞台芸能絵合せかるた」は、その後、江戸時代中期(1704~89)には、人気の歌舞伎役者に焦点を当てた「役者かるた」に変化した。これについてもすでに3-1で述べた。

ただ、そこでは話の展開にうまく組み込むことができなくて書き漏らした「順禮かるた」についてここで述べておこう。このかるたは、柳亭種彦の『柳亭筆記』巻二に記載があって古来著名であった。同書によると、元禄年間(1688~1704)に女順礼が流行した。京都、大坂、江戸で女性たちが、「衣装にだてを作り、笈摺をまとひ胸札を掛け實の順禮の如くいでたち洛陽の観音の霊場をうちめぐりしなり」ということであり、その姿をかるたに仕立てたのが「順禮かるた」である。

山口吉郎兵衛はこのかるたに関心が強く、遺品を探したがついに見つけることが叶わず、『うんすんかるた』にこう書いた。「近来のカルタ関係書は皆この順礼カルタを記しているが、現物は肉筆か、印刷か、其他枚数等明かでない。恐らくは京都製のもので、三十三所の観音霊場に配してそれぞれ役者の順礼姿の絵を描いた三十三対の絵合せカルタであろう。絵合せカルタは一般向印刷品は殆ど滅失して伝わらず、現存しているものは大抵皆上記の如き教育的高級品のみで、順礼カルタの如き種類の古製興味本位のものは筆者も未見の稀品である。」[1]『柳亭筆記』ではこれが一対・二枚の絵合せカルタであるとは書かれていないので相当に大胆な推測である。また、このかるたが何対で一組なのかもわかっていないが、山口は観音霊場の数から三十三対と推定している。これも大胆な推測である。後進の私としては、史料が新たに発見できたものでもないので、果ていかがなものか、と思うだけであった。

天和年頃俳優見立巡禮かるた
天和年頃俳優見立巡禮かるた
(『清水晴風手控え帳』)

この窮状を救ったのが、清水晴風による、「集古會」展示会への出品作の模写集『清水晴風手控え帳』である。ここに、「集古會」の展示出品記録にはない「巡禮かるた」の模写がある。「天和年頃俳優見立順禮かるた 豊芥子旧蔵裏書有」である。「六番大和坪坂寺 大和屋長三郎」「九番奈良南圓堂 小野川宇源次」「廿二番津國惣持寺 袖崎かりう」「廿四番津國中山寺 松本兵蔵」などの五枚が模写されており、順禮姿の図像とともに和歌が掲載されている。模写されている和歌はいずれも上の句であり、対となる下の句札があったことが推測されるが、それがどのようなものであるか、そこにはどうような図像があるのかは分らない。だが、伝えられてきたとおりに、小野川宇源次、袖崎かりう、松本兵蔵などの当時の人気役者の名前が添えられ、巡礼姿もこの者たちの舞台姿に見立てて描かれている。また、書かれているのは順礼の巡る寺社の名前やそこを詠う和歌であり、六番、九番、二十二番、廿四番とあるので、多分、観音霊場の数、三十三か所にちなんで三十三対・六十六枚で構成されているかるたであろうと推測される。この模写図を見て、初めてこのかるたの姿を知ることができ、同時に、山口吉郎兵衛の推測が正鵠を射ていたことを喜ばしく思った。

その後江戸時代中期(1704~89)になると「役者かるた」が流行し、概ね天明年間(1781~89)頃に、物事をいろは順に整序して説明して理解する「いろは順化」の一大ブーム[2]が生じて、「役者かるた」をいろは順に整備した「いろは役者絵かるた」も登場して、その他の新企画のかるたともども、「舞台芸能絵合せかるた」とは別種の「絵札」と「字札」を合せる「芝居遊びかるた」類を形作っていった。


[1] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一五七頁。

[2] 森田誠吾は以前からこの点を指摘している。「いろはかるたの流れ」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、四頁。

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