(七) キューリンの麻雀牌
これまで何回か言及したアメリカの民族学者スチュワート・キューリン(Stewart Culin)は、一九〇九年一二月に上海市を訪問したときに、ブルックリン博物館のために麻雀牌を購入している。キューリンは一九二四年にこれについて、写真を添えて報告している¹。また、ブルックリン博物館には、このときにキューリンがもたらしたものともとれる牌が今日でも残されている
キューリン牌は、縦二六ミリ、横二〇ミリ、厚さ一三ミリで、すでに近代型の麻雀牌の大きさになっている。その図柄も、近代型の麻雀牌そのものである。「一索」牌が燕の飛ぶ図柄になっており、「八索」牌は「M索」になっている。また、花牌として、「琴」「棋」「書」「画」の文字牌と、「梅」「蘭」「菊」「竹」の牌があり、百四十四枚構成である。したがって、上海市や寧波市では、遅くも一九〇九年までには近代型の麻雀牌が完成していたと考えてよい。
現在残されているキューリン牌と一九二四年のキューリン自身による記録の間には若干の食い違いが見られる。まず、キューリンは、一九二四年の論文で、どういう理由があるのか、「白」文字牌を牌構成から外している。現在、残されている牌には「白」文字牌四枚が含まれているので、欠落していたからではなく、意図的に除外したことになる。その理由がよく分からない。あるいは、ウイルキンソンからの教示に従って、これを単なる予備の牌と考えて除外したのであろうか。
また、一九二四年の論文で図示して紹介されている牌の中には、ほかの牌よりも少し大きな「文」、「武」、「捴」という華北麻雀牌系の文字牌が含まれている。それはどこかに消えてしまって、現在残っているキューリン牌の中には残されていない。麻雀牌は、大きさが違えばゲームに使うことができない。これらの文字牌は少し大きめのほかの麻雀牌セットから誤って混入されたものと考えられている。あるいは、キューリンに骨牌を売った上海市の製造業者が、サービスのつもりで、そこらにあった半端な牌を、悪意なく付け加えたのであろうか。いずれにせよ、セットの内容としては違和感のある部分である。
ただし、こういう半端な物品史料でも史料価値がある。予想外のことであるが、この半端品のおかげで、一九一〇年頃の上海では、「捴」という華北、東北地方
のマージャン牌も製造されていたことが判明するのである。
キューリンの説明によると、この牌とともに、次のものを購入している。「私は一組のカウンター(ゲームで使うチップ)を購入した。それは、平たい牛骨でできていて、四種類違う長さのものがある。これの両端には、さいころや牌の点のようなマークがついている。六がダブっているもの、エースがダブっているもの、四がダブっているもの、三と一の組み合わせのものである。また、一から十までの番号をつけられた牛骨の円盤を収めた牛骨の小さな箱も購入した」。前者は明らかに伝統的な中国式の点棒、「籌碼」(チヨウマ)である。だが、後者は何なのであろうか。形からすると、今日では容器のほうも丸い、親の所在を示す「荘子」なのだが、中に入っているものがなぜ「東」「南」「西」「北」の円盤ではなくて「一」から「十」までの数字の円盤なのかがよく分からない。
キューリンの一九二四年の論文は、近代型の麻雀牌の登場の時期にかさなるので、今日的な関心からするときわめて興味深い情報を何点か伝えている。まず、麻雀牌の呼称であるが、キューリンは、一八九一年に寧波市でウイルキンソンが聞き取ってきた「中発」(chung fat)という呼称を、当時はこう呼ばれていたものとして支持している。今回の検討でも、すでに、二組の麻雀牌の収納箱に「中發」の文字を見てきたのであるから、実際にこの時期にこう使われていたというキューリンの判断は間違っていないであろうと思われる。そして、キューリンは、「麻雀」という呼称は、ウイルキンソン牌の時代には、まだ紙牌をさすものであったと指摘している。
キューリン自身は、一九〇九年の年末に上海市を訪れているが、そこではt’in kau (heavens and nines)、wak fa(to draw flowers)、cho ma cho (ma tseuk = sparrow)を購入している。「天九」牌、「挖花」牌、「烤麻雀」牌である。麻雀牌にあたるのはcho ma choであって、すでに「中發」という呼称は消えていたのだろう。
この「中發」という呼称の消長は興味深い。私の推論であるが、寧波市で誰かが多くなりすぎてわずらわしい「花牌」を整理するとともに、「發」の文字牌を加えることを思い付き、ルールも工夫してその組み合わせの牌で遊技をしたところ好評で流行し、寧波市内では一般にも販売されるようになった。その際に、「新しく考案された『中』『發』入りの骨牌」という売り口上が、「裏は上等の黒檀」という口上と合体して、「烏木中發」になったのであろう。そして、これが大流行して標準の麻雀牌になると、「中發入りの骨牌」という売り口上も陳腐になり、単純に、「麻雀牌」と呼称するようになったのではないだろうか。ほかならぬ寧波市で売られていた麻雀牌の収納箱に「中發」と書かれているのであるから、「發」字牌の考案は十九世紀末で場所は寧波市という伝承と一致することになる。
この論文の面白さは、キューリンが現地で接触した人々について書かれているところにもある。こういう記述がある。「私が一九〇九年一二月に上海市を訪れたとき、中国人居住区である上海古城の城壁から直ぐ内側の通りが、牛骨と竹の骨牌を製造して販売する地域になっていた。箱に入った骨牌が何種類も、通りに面した机の上に広げられて販売されており、裏では、男の子たちが材料を切ったり貼り合わせたりしていた」。キューリンはそこで売り子と会話している。もちろん、通訳を介してであろうが、その売り子が言うところでは、「この骨牌には、決まった標準的な形があるのではなく、客の注文であるならばどのようなものでも対応できるようにしている」のである。なるほど、こういう風に客のオーダーが効くのなら、麻雀牌の図柄が千差万別で多様になっている理由が良く分かる。
また、上海市におけるキューリンの調査の協力者である中国人Dzau Sing Chungは、この骨牌は人気のある遊技で、以前は金持ちの間でしか遊ばれていなかったのに、今では社会全般に広がっている、と説明した。彼はまた、この遊技が最近広東市で流行り始めているといったので、キューリンは、同じ冬の間に広東市に行った際に骨牌製造業者を訪ねたのだが、そこでは麻雀骨牌は見かけなかった。この失敗談も、別の角度から見ると、麻雀が上海市、寧波市では盛んでも、まだ広東市、香港地域には広まっていないということを意味するのであるから、麻雀遊技の地域性を説明してくれていることになる。そして、麻雀骨牌の値段であるが、紙製の「馬吊(マーチャオ)紙牌」と比べれば安物でも数百倍、良いものでは数千倍の値段がする。麻雀骨牌は紙牌に比べれば確かに格段に使いやすく、遊技の雰囲気も高めるが、「以前は金持ちの間でしか遊ばれていなかったのに、今では社会全般に広がっている」という説明も納得がゆく。ただし、「社会全般に広がっている」というのは誇大な表現で、こういう奢侈品を多用する社会と言えば、なんといっても妓楼である。日本のカルタが江戸時代には長崎、京都、江戸などの遊郭で盛んに遊ばれたのと似たようなものであろう。
ただし、日本の遊技で、数百倍、数千倍もする囲碁や将棋、双六やかるたの用具が市場に溢れたという記録はない。京都の天皇様や江戸の将軍様が使う碁石や将棋駒でも庶民向けの用具との間にこれほどに大きな価格差はなかった。数百倍、数千倍の遊技具が共存する社会とは、さすがに富の偏在が激しく、富める者は目も眩むほどの富を浪費する文化の中国だと感心する。
¹ Stewart Culin, ’The Game of Ma-jong, its Origin and Significance’ , Brooklyn Museum Quarterly, Vol. XI, 1924.