『小児教訓かるた合戦』  (横山長八版、明治二十二年)
『小児教訓かるた合戦』
(横山長八版、明治二十二年)

明治時代(1868~1912)の東京、下谷区に、横山長八というかるた制作業者がいた。東京のいろはかるた制作業では長谷川忠兵衛、牧金之助(金寿堂)らと並ぶ大手であったが、押し寄せる近代化の波に乗るべく、この時期には「単語かるた」「武者かるた」「英語ことわざカルタ」などの教育いろはかるたを出版していた。

この横山が、花札の大流行という事態を憂慮して、明治二十二(1889)年に、花札の隆盛に対する皮肉の意味をこめて、『小児教訓かるた合戦』という豆絵本を制作している。これが、いうならば、江戸のかるた文化への決別の宣言であった。

これは次のようなストーリーの豆絵本である。昔々、「嘘八百余代、淮々(わいわい)天皇」の時代に、「百人一首」と「花軽太」が不和になった。「百人一首」の側には「伊呂波加留太」「源氏の局」「道中双六」「十六武三四」が味方して、「花軽太」を滅ぼそうとして出陣の用意をして盤面に陣を張った。一方、「花軽太」の側には、「一六斎」「めくり布太」「パース」が味方して出陣した。「百人一首」方の面々は「かりほのいほの陣所をあまのかぐやまにもうけ、わがころもでのみ旗を天つかぜにへんぽんとひるがえし、むべ山さしておしよせる」が、「花軽太」の方の面々も、「三光、四光、すがわら、五だんめの備へを立て、むらさき短冊の役ものの旗をあめにふけながし、毛氈が岳に陣をとり、いまや遅しと敵の来たるを待ちかけたり」であった。両者は激突して合戦に及び、「百人一首」方の「伊呂波加留太」は、「おににかなぼうを振り回し、ゆだんたいてきを言葉もせず、いぬもあるけばぼうにあたるを幸いなぎたおし、敵の陣中を駆け巡り、さんべんまわってたばこにせん」という大活躍で「一六斎」を生け捕った。同じく「百人一首」方の「十六武三四」は、「めくり布太をばらりずんと切り散らし」、「寸語六」は「パース」を追い詰めたが「パースはおばけの術をもつてかき消すごとくうせにける」であった。「花軽太」本人も打って出たが、「十六武三四」と渡り合っているときに落馬して生け捕られた。こうして大将が捕まったので残りの軍勢はみな降参し、百人一首側が勝利した。これを帝も喜んで多くの賞を賜ったので、「百人一首」から味方に褒美が与えられ、他方で、「花軽太」やそれに味方した「一六斎」「めくり布太」「パース」は、法律によって、罪の軽重にしたがって懲役に処せられた。めでたし、めでたし。

赤色の獄衣を着た懲役囚、  イメージは江戸期の遠島刑のまま  (『小児教訓かるた合戦』)
赤色の獄衣を着た懲役囚、
イメージは江戸期の遠島刑のまま
(『小児教訓かるた合戦』)

横山は、この豆絵本の最後に、こう書いている。「おこさまがた、学校でおべんきやうのいとま、うたかるたはよけれど、ふだあわせはあまりほめられませんぞ」。ここには、「教育」に接近して、そこで活用されることで発展しようという、江戸かるた文化の担い手の新出の近代日本の文化への同調がある。「百人一首」「いろはかるた」「源氏かるた」「道中双六」「十六むさし」は教育に有益というキーワードの下で近代社会にも市民権があるが、「花札」「めくりカルタ」「トランプ」「骰子」は犯罪として取り締まられるべきであるという。ここには、新興の「上方屋」が体現しているような賭博色の強い江戸かるた文化は切り捨てるべきだと、まだそうした猥雑な文化の残照の中にいる人々に、近代化に向けて身を清める覚悟を迫る気持ちがある。ここに商機を見出そうとするあたりに、新興の資本主義的な商売の意欲への芽生えがある。教育を振りかざしてのかるた文化の粛清であり、転向者は、いつの時代でも同様であるが、二百パーセントの愛国者、二百パーセントの体制側の人間になる。横山はそういう一人であり、この横山のような人間が大量に発生したこの時期に、聖と俗が微妙にまじりあい、封建の身分社会でありながらその格差に関わらずに上下がともに楽しむことができた、穏やかな江戸のかるた文化は終焉の時を迎えていた。私には、『小児教訓カルタ合戦』は、その猛々しい文章の調子にもかかわらず、なお江戸のかるた文化への挽歌のように聞こえる。

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