(二)明治前期の賭博犯処罰

少し歴史をさかのぼって説明するが、明治維新後の新政府は近代国家形成のために、それまでの各藩で異なっていた刑罰法規に代えて、全国で統一された新たな法規の制定を急いだ。しかし、賭博関連の法規は必ずしも整備されたものではなかった。維新後の刑罰法規である明治元年(1868)の「仮刑律・雑犯」、明治三年(1870)の「新律綱領」、明治六年(1873)の「改定律例」などは、いずれも博奕を禁止して、加える刑も「新律綱領」第二百六十九条で「凡賭博。三犯以上ハ。懲役一年。」と従来の笞刑、杖刑を懲役刑に改めた。また、第二百七十一条に「凡博戯ニ用フル骰子、骨牌ヲ売ル者ハ賭博罪ト同罪。再犯ハ一等ヲ加ヘ、三犯以上ハ懲役一年。」と規定して賭博用具の販売も取締りの対象とした。だが、江戸時代の法制度の基本骨格であった重罪の「博奕」と軽罪の「賭けの勝負」との二類型の境界は明らかでなくなった。また、女子どもの遊戯に用いるカルタの取り扱いも明確でなかった。軽い賭博行為は明治五年(1872)以降に各地で制定された、軽犯罪法の前身、違式詿違(いしきかいい)条例で規制されるべきところであったが、こういう事情で先行した法令が扱ったので同条例の対象からは外されていた[1]

そのために地方政府からは疑問が出され、司法省が回答する事態が生じた。たとえば明治六年(1873)七月に、「新律綱領」二百七十一條では博戯に用いる骰子骨牌の販売者を賭博者と同罪とされているが、他方で賭博をしても飲食を賭ける者は無罪ともされており、そのための骰子骨牌の販売は合法ということになるが、実際に販売するときは購入者がどのように使うのかは分からないので、いっそのこと販売を全面的に禁止したいと問い合わせがあって、そうせよと回答したりしている[2]

 明治政府による賭博の規制は、明治十三年(1880)に制定された「刑法」が、明治十五年(1882)に施行されるようになって大きく変わった。「刑法」第二百六十条は「賭場ヲ開帳シテ利ヲ図リ又博徒ヲ招結シタル者ハ三月以上一年以下ノ重禁錮ニ処シ十円以上百円以下ノ罰金ヲ付加ス」と定め、同第二百六十一条は「財物ヲ賭シテ現ニ賭博ヲ為シタル者ハ一月以上六月以下ノ重禁錮ニ処シ五円以上五十円以下ノ罰金ヲ付加ス 其情ヲ知テ房屋ヲ給与シタル者亦同シ但飲食物ヲ賭スル者ハ此限ニ在ラス 賭博ノ器具財物其現場ニ在ル者ハ之ヲ没収ス」と定めたのであり、賭博罪は「現ニ」行われている場合に限って規制される現行犯取締りになったので、警察が賭博の現場に踏み込もうとすると博徒の抵抗にあい、それに手こずっている間にいち早く現に行っていた証拠を隠してしまい、警察が現場に到達したときにはすでにもぬけの殻で現行犯ではなくなっていて罪を免れることができるようになった。こうした困難に輪をかけたのが明治十三年(1880)の「治罪法」で、家宅捜索を日の出後日没までに行うこととしたので、夜間に開かれることの多い賭場の取締りはさらに困難であった。

この「刑法」「治罪法」の制定によって、明治政府は治外法権の撤廃という条約改正の眼目を実現する前提として欧米諸国から求められていた、欧米人も安心してその管轄に服することができるような近代的で合理的な、西欧法に準拠した刑罰法規と刑事裁判制度に一歩近づくことができたのであるが、博奕の取締りに関して言えば、フランス法を模倣するような緩刑の法律では、日本の博奕の実状に適合しない。当時の社会不安に乗じて全国の博徒の活動が活発になり、博奕はとても盛んに流行するようになった。

 


[1] 違式詿違条例についい、百瀬響『文明開化 失われた風俗』、吉川弘文館、平成二十年。

[2] 明治初年の刑罰法規の変遷及び地方からの問い合わせと司法省の回答については、江橋崇、前引第二章注69『ものと人間の文化史一六七 花札』、一六六頁。