(五)めくりカルタ代用品説を否定する史実の発見

花鳥合せ(村井カルタ資料館蔵、『別冊太陽いろはかるた』)

私は、昭和五十年代(1975~84)に花札史の研究を始めたが、当初は、この清水晴風、村井省三の通説を疑うことはなかった。だが、通説を支える史料の乏しさが気になっていた。それに加えて、大平与文次や永沼小一郎など、清水晴風以前に花札の沿革を研究した者の、清水晴風の所説に影響されていない論文を発見して熟読すると、賭博カルタ代用品とする通説への疑問はさらに増した。とくに①法制史の史料を調べると、寛政年間(1789~1801)の改革以降もめくりカルタを使用して博奕を行い処罰された例が山ほど出てくるのに、花札で博奕を行って処罰された記録が江戸、京都、大坂などの幕府直轄地でも、全国どこの藩でも出て来ない。花札が江戸時代後期にはめくりカルタに代って博徒の博奕に使用されて取り締まられたという説が史料的には全く成り立っていない。②清水も村井も自説の最強の論拠として自分が蒐集した安永年間(1772~1781)の「花鳥合せ」の残欠を誇示するが、これを「花鳥合せ」と呼んだ例は清水以前には全く存在せず、この呼称自体が清水の造語と思われる。花札とこの「花鳥合せ」の図像を比較すれば、花鳥風月を描いている点では共通するが、両者の間に直系の親子関係を見るのはいささか強引である。③花札の遊技法とめくりカルタの遊技法は、フィッシング・ゲームという基本的な性格では同一であるが、遊技法の細かな点、特に役の成立には大きな違いがある。花札の遊技法がめくりカルタの遊技法の翻案であるという理解は成立しない。

このような深刻な疑問が続出したので、花札が寛政年間(1789~1801)の改革によるめくりカルタ厳禁への対抗策として数十年をかけて形成され、三十年後の天保年間(1830~44)までに、カルタ賭博の用品として人心を得たが、そのために抑圧されて禁制品になった、という理解は史実ではないことがはっきりしたが、全体的な史料不足のために、これに代わる正しい歴史像を描くことができなかった。

この壁を破ることができたのは平成年間(1989~2018)の始めであった。この時期に、まず、江戸時代後期の木版花札である「武蔵野」の完品が出現した。これにより、最初期の木版花札のイメージが明確になり、それまでの村井省三による花札遺品の制作年代測定の誤りが明確になった。さらに、江戸時代中期(1704~89)の後半、まさに安永年間(1772~81)頃の手描きの花札が発見され、大牟田市立三池カルタ記念館が所蔵することとなった。これは、四条丸山流の優雅な図像の札であり、図像の構成が後代の木版「武蔵野」やその後の花札の図像と完全に一致しており、また、とても上品で賭博用品の匂いは全く感じられず、上流階級の遊技に供されたものと思われた。こうした寛政の改革よりも以前の時期の花札の発見により、安永年間(1772~81)には、「花鳥合せ」と並んで真正の「手描き花札(武蔵野)」が存在していた事実が判明し、花札は寛政の改革以降の産物であり、文化、文政期(1804~30)以降の木版花札「武蔵野」が最古のパターンであるとする清水晴風の通説が史実によって破産し、花鳥合せと花札は親子の関係ではなく絵合せカルタ類の中での親戚にすぎなかったことも明確になった。

文化年間の木版花札【武蔵野】
元禄年間後期の花合せかるた_
八文字屋自笑、江島其磧『役者金化粧』

次に私が発見したのは、享保四年(1719)に刊行された八文字屋自笑、江島其磧『役者金化粧』[1]にある「武蔵野(むさしの)の 月(つき)星(ほし)日(ひ) 三光(さんくはう)に」という表現であった。この史料に初めて出会ったのは江戸カルタ研究室のサイトであった。そこでは、この言葉は「読みかるた」の役の実例として紹介されていたと思うが、読みかるたでは、三光の札、つまり「青の二」「釈迦十」「あざピン」は、天空に光る日、月、星に由来するものではない。「武蔵野」と明示してあるように、ここでは、「武蔵野」というかるた札の「松に太陽」「芒に月」「桐に星」が、天空に光るものを表しているので光物と呼ばれ、「三光」の高点札、役札になったことと、武蔵野第一の光り輝く歌舞伎役者、市川團十郎を重ね合わせて表現しているのである。これはすなわち、享保年間(1716~36)にはすでに「武蔵野」の遊技が成立し、それに用いる手描きの「武蔵野」札が存在していたことを前提にしている。これが史実だとすると、享保年間(1716~36)よりも三十年ほど遅い時期に考案された「めくりカルタ」が花札の元祖であるという清水晴風以来の説は、昭和という時代が明治という時代よりも以前にあったといっているようなもので、到底支持できないことになる。

こうした経緯で、私は、清水晴風以来の通説に反旗を翻して、大平与文次や永沼小一郎の説を重視し、一組四十八枚の花札は江戸時代前期(1652~1704)のもっと枚数の多い花合せかるたから江戸時代中期(1704~89)までに分離独立し、享保年間(1716~36)までに上流階級の手描きの遊技かるたとして成立していたと考えるようになったし、そのように発言もしてきた。『ものと人間の文化史167 花札』も基本的にはこうした理解で著述してある。

ただ、私の理解は、自説の史料的な根拠に薄い話であり、通説を否定することはできたが、自説を説得力ある形で提示できていなかった。私として、研究者としての自分の役割はここまでで、その後の発展は後世に託そうと観念していた。この状況を一変させたのは、平成三十年(2018)四月に起きた、花合せかるたに関する重要な史料の発見である。項を改める。

 


[1] 歌舞伎評判記研究会編『歌舞伎評判記集成』第七巻、岩波書店、昭和五十年、一〇七頁。