大流行した読みカルタ遊技については、絵画史料も数多く残されており、研究の役に立つ。私は研究を始めた当初からそれを探し、そこに描かれている場面がどのような遊技法のどのような瞬間を捉えたものであるのかを解析してきた。当時私は、こういう私の研究手法を導いてくれる先達の業績を見つけることができなかった。ほぼすべての先行業績では、カルタ遊びの絵画と特定するだけで終わっており、画面の中身に立ち入って解析する先行研究はなかった。

やむを得ず、一人で研究を進めると、オリジナルな絵画作品もあるが、他の絵画の模倣に終わっているものも少なくないことが分かった。京都の画房で、同じ見本、粉本を写して複数の遊楽図を作画するので、同じようなものになってしまう。あるいは、後世になって、まったくの空想で描くので絵空事になっているものもある。国宝の松浦屏風なども残念ながら国宝としての公的な鑑定とは異なり、後世になって往時を偲んで描いた作品で、カルタ遊技の場面はどういう遊技法なのか合理的な説明がつかない。

カルタ遊技図、特に江戸時代初期の遊郭での遊興図では、絵師にカルタ遊技の真実を描こうという意気込みが薄いものがあり、遊技者の手札や座の中央に出されている場札が遊技のある瞬間を切り取ったリアルなものとは言えず、ちぐはぐで訳の分からない構成になっている。しかし逆に、確かにカルタ遊技に明るい絵師が丹精を込めて描いた作品で、カルタ遊技の一瞬を、各遊技者の手札の数も、散乱する場札の数も、各人が獲得した札の数も正確に描き出しているものもある。たとえばかつて藤井永観堂が所蔵し、今は立命館大学アート・リサーチセンターが所蔵している「カルタ遊び図」は、江戸時代初期の「合せカルタ」遊技を見事に描き出している。また、京菓子資料館所蔵の「邸内遊楽図屏風」は、一つの画面に「読みカルタ」「かぶカルタ」「歌合せかるた」という当時の遊郭で流行したカルタ遊技を三種類も描き分け、さらに貝覆の遊技場面まで添えるという構成で史料的価値が高い。その他にも優良品はある。私はこういう品をとくに高く評価してきた。絵画をカルタの遊技法と遊技の瞬間が序盤、中盤、終盤のどれかを特定して史料として使う私の手法は、のっぺりと「カルタ遊び」としか説明してこなかった従来の研究に比べて、一歩前に出たと自負している。

こうした研究の際に心がけていたのは、先入観なしに絵画その物を見ることである。所蔵者の付けた名称や、あるいは以前から伝来する名称などは一応判断の外に置いて、絵画そのものを見つめ、その絵画自身が語り出すのを待つ。こうした手法で過ごしてきた。

繪本池の蛙
『繪本池の蛙』
(宮武外骨『賭博史』の紹介)

ここで問題なのが、延享四年(1747)の木版本『繪本池の蛙』である。この書物には、カルタ遊技の場面を描いた絵が二枚あり、うち一枚はかつて宮武外骨が『賭博史』で紹介したのでよく知られている。宮武は同書でカルタ史研究に不朽の功績を残したが、「めくりカルタ札」を使った「読みカルタ遊技」を行っている図として認識して紹介している。宮武が本書を執筆したのは大正年間(1912~26)、今から百年も前の話である。当時は利用できる史料も少なく、先行研究も乏しい中で、在野の研究者、宮武は大いに奮闘して多数の文献史料を発掘して紹介し、江戸時代の賭博事情を生き生きと蘇らせた。

その際に、宮武は、賭博系のカルタをおしなべて「めくりカルタ」と呼んでいた。これは、宮武が江戸時代後期(1789~1854)の認識の枠組みで理解していたことを示している。当時は、江戸における「めくりカルタ」の大流行によって賭博系のカルタ札は広く「めくりかるた」と呼ばれていた。江戸時代中期(1704~89)に「めくりカルタ」の遊技法が考案されるのよりはるか以前の江戸時代前期から伝わっていた「読みカルタ」札まで「めくりカルタ」札の一種とされていた。だから宮武が『繪本池の平』に「よみがるた」とあれば、「よみカルタ」の札のことではなく、それはすなわち「めくりカルタ」札を用いた「読みカルタ」遊技のことだと理解したのは、誠にやむを得ないところである。宮武の用語法に従うと、「めくりカルタ」遊技が考案された明和年間(1764~72)よりも百年も前の江戸時代前期(1652~1704)にすでに「めくりカルタ」札が誕生していたことになり、いかにも具合が悪い。だが、こういう宮武の失点について、百年後の進んだ研究水準の恩恵を受けながら研究を進めてきた私があれこれ言うのは後出しじゃんけんに近いことだと思う。本書の内容の検討に戻ろう。

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