女武者絵かるた
女武者絵かるた
(滴翠美術館蔵、『季刊銀花13号』)

こうした絵合せかるたの中で特別の関心を呼ぶのは「武者合せかるた」である。山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』には、慶安年間(1648~52)頃の「女武者絵カルタ」[1]断片三十九枚と元禄年間(1688~1704)の「唐土武者絵合せカルタ」[2]五十対・百枚が挙げられており、他に、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館にも時代が下がるが寛政年間(1789~1801)に活躍した土佐光貞画の武者かるたがある。

このうち、まず「女武者絵カルタ」は、縦六・八センチ、横五・五センチで表面、裏面ともに金無地のカードである。残されているのは漢字絵札三十九枚のみであり、合い札は不明である。また、三十九枚は半端な数であり、五十対・百枚の絵合せかるたの残欠であろうと推定されている。図像は土佐派の画風で相当にち密に描かれており、慶安年間(1648~52)頃に作成された高級品である。札は相当に使われたらしく既使用感があり、傷んでいる。

 

唐土武者絵合せかるた
唐土武者絵合せかるた(滴翠美術館蔵、
「滴翠美術館名品展目録」、元禄年間)

ここに取り上げられている女性は、「菊前」「妻賀孫三郎長家女」「真田与一妻」「長野右景妻」「照日大良妻」「安藤治部妻」「長崎治郎高重女」「佐藤庄司妻」「形名妻」「渋谷金王丸母」「左中将清経娘」「伊豆守成光妻」「鬼一法眼娘皆鶴姫」「惣馬四郎左衛門女」「小山判官妻」「清寿院」「長谷部信連女」「相馬小次郎妻」「河内守頼義妻」「田道妻」「妙喜尼」「永井氏娘」「阿保越前守妻」「備後三郎高徳妻」「村上彦四郎女」「渡辺源五綱母」「江馬小次郎妻」「和泉三郎妻」「瓜生判官母」「伊達次郎妻」「浮嶌妻」「平沢光景妻」「仁田妻」「伊豫守頼義妻」「門限中納言妻」「尼将軍」「秋山新蔵人妻」「山吹」「鎌田兵衛妻」である。『うんすんかるた』には、このうち、「尼将軍」「渡辺源五綱母」「菊前」「備後三郎高徳妻(画像では女と読める)」「長崎治郎高重女」「村上彦四郎女」「妙喜尼」「仁田妻」の八名の図像が掲載されている。また、『季刊銀花第十三号』には、「和泉三郎妻」「仁田妻」「長野右景妻」「伊達次郎妻」「惣馬四郎左衛門女」「門限中納言妻」「瓜生判官母」「鎌田兵衛妻」「相馬小次郎妻」の九名の画像が掲載されている。

唐武者絵合せカルタの人物名
唐武者絵合せカルタの人物名

このかるたに登場するのは、いずれも、父親ないし夫とともに戦いに参加し、武具を身にまとい、奮戦して有名な女性である。戦国時代の女性は、自分の実家ないし嫁ぎ先の戦いに武器を手にして参加し、戦闘に勝てば良し、負ければ親や夫とともに戦死した。こうした女性像をヒーローと考え、武者かるたの題材にしたのは、江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の前半のことである。それは、戦国の世を勝ち抜いてきた新興の武士の家で好まれた女性像であり、戦力外のしとやかな女性を貴ぶ公家の家の家風には合わない。また、こういう活発な女性像は、元禄年間(1688~1704)頃から、しとやかで、文芸に親しみ、舞踊や管弦を好み、家族の中心にいる男性に従順に従う女性像を良しとする封建の文化が盛んになると、もはやモデルとはならない。つまり、女武者かるたは、戦国の遺風がまだ強く残り、女性の勇者の人物像が強く印象付けられていた、江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)においてのみ生きることができた絵合せかるたであったのである。こうした時代の文化の香りを感じさせるところが、このかるたの無比の価値である。なお、海外から伝来した南蛮カルタでは、「ソウタ」のカードの図柄は、楯をもち、剣や棒をかざす戦う女性であった。それを模した天正カルタでは、当初は女性の「ソウタ」であったが元禄年間(1688~1704)頃までに「坊主」の図像と理解されるようになり、うんすんカルタではこれと異なり、時に踊り、時に管弦に親しむ高貴な女性の姿に変化している。こうした女性の理想像の変化に合せるように、「女武者絵合せかるた」は忽然と姿を消した。

次に、「唐土武者絵合せカルタ」であるが、これは縦七・九センチ、横五・五センチのカードで、表面は紙地銀箔散し、裏面は銀無地である。カードが五十対・百枚揃っているので、史料価値が高い。

このかるたで採用されているのは、「関羽」「諸葛亮」「韓信」以下の中国の英傑五十人の画像である。その人名については、一部に日本語になっていない中国字が使われており、文字化けを恐れてここでは『うんすんかるた』一三九頁の関連個所を画像で提供する。これらの者に付き、同一の図像のカード二枚のうち、一枚には人名が漢字で書かれており、もう一枚には平仮名で書かれている。『うんすんかるた』には、このうち、「諸葛亮」「張飛」「関羽」「張良」の漢字札四枚の図像があり、他に、『江戸の遊戯』では、「張良」「諸葛亮」「太公望」「韓信」の漢字札四枚と、「いかうくわん」「りよぬ」「ひやうい」「きしん」の平仮名札四枚が掲載されている。

この中国の英傑を取り上げたかるたは他に類似のものがない特異なものである。一見して分かるようにこれは極めて難解なものである。五十名の英傑がどのような人物であるのか、ほとんど知られていない者が多いし、そもそも、人名の漢字が日本語では通用していないので読み方が分からない者さえいる。名前が読めない未知の中国人を画材とする絵合せかるたである。平仮名札を頼りに、同じ画像の絵札を探し、そこに記載されている漢字書きの姓名を読んで学習する。だが、人物像が分からない。かるたとしては魅力が薄い。つまるところ、このかるたは、誰が、いつ、どこで、どういう目的で遊技に用いた、あるいは学習に活用したのか、さっぱり分からないのである。これもすぐに消えた。

武者合せかるた
武者合せかるた
(大牟田市立三池カルタ・歴史資料館蔵)

なお、大牟田市立三池カルタ・歴史資料館に、土佐光貞筆の「武者かるた」がある。これは「源為朝」「源義朝」「藤太秀郷」「柴田勝家」「楠木正成」「源義経」などの日本の英雄を描いた江戸時代後期(1789~1854)のかるたであり、この形式のものはこの時期から幕末(1854~68)、明治前期(1868~87)に木版で大いに流行した。つまり、武者かるたは、江戸時代前期(1652~1704)までに始まっており、それが紆余曲折を経て、江戸時代後期(1789~1854)の木版のかるたに引き継がれたのである。


[1] 「特集❶日本のかるた」『季刊銀花』第十三号、文化出版局、昭和四十八年、一八頁。『別冊太陽いろはかるた』平凡社、昭和四十九年、一二〇頁。『古典の遊び日本のかるた 文藝春秋デラックス』第一巻第八号、文藝春秋社、昭和四十九年、一三頁。

[2] 前引『古典の遊び日本のかるた 文藝春秋デラックス』第一巻第八号、一二頁。滴翠美術館名品展開催委員会『滴翠美術館名品展 茶陶とカルタを中心に』、小田急百貨店、昭和五十三年、一九五番。

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