三 なぜか人気の「武者合せかるた」

江戸末期武者かるた

 

江戸時代後期(1789~1854)以降の「絵合せかるた」類の中で、人気が高かったものの一つが「武者合せかるた」である。日本の歴史上の勇者、英雄を取り上げ、絵札には甲冑姿の雄姿を描き、字札にはその姓名を書いてある。この系列のかるたは、江戸時代初期(1603~52)の、手描きの武者絵のかるたに始まった。その図像は美麗で、作りは高級であり、元来は、上級の武士の家での幼児教育的な目的もあって普及したと思われるが、それが江戸時代後期(1789~1854)には、江戸の多彩色木版の出版業の隆盛に伴い、木版かるたの花形として売り出されたものである。

幕末期武者かるた双六f

このかるたは、江戸時代には政治的な配慮を必要とした。安土桃山時代以降の武者を取り上げようとすると、将軍家との関係が表面化する。関ヶ原の戦いや大坂冬の陣、夏の陣で徳川方と敵対した大谷吉継、島左近、真田幸村、後藤又兵衛などの西国の勇士は取り上げにくいし、徳川方に付いた者でも、加藤清正や福島正則の様に後に政治的に没落させられた者も取り上げにくい。逆に、前田利家や伊達政宗などは、子孫が現に大名であるから非礼があれば致命的であるので取り扱いが難しい。先祖を英雄として落選させられた大名家の怒りも怖い。それにそもそも、徳川家康はどうするのか、秀忠はどうするのか、家光はどうするのか、消えていった一族の勇者たちはどうするのかという徳川本家の扱いにも苦慮することになる。そこで、江戸時代の武者かるたでは、武田信玄と上杉謙信は別格で採用され、なぜか山本勘介が人気で採用され、時に明智日向守光秀が登場するものの、戦国時代以降の勇者は登場せず、基本は平安時代の源平の戦いの勇者であり、そこに南北朝の対立の時期から楠正成らが加わるものとなっている。幕末期の武者かるた風の双六、「英勇揃伊呂波雙六」、「明治前期武者かるた」、「明治中期武者かるた」とともに比較してみたい。

明治前期武者かるた
明治中期武者かるた

 

武者かるた採択勇者比較 

江戸後期かるた英雄揃伊呂波雙六明治初期かるた明治前期かるた明治前期かるた
伊豫守義経伊豫守義経伊豫守義経伊豫守義経いよの守源よし経
六孫王經基六孫王経基六孫王経基六孫王経基ろくそんわうつねもと
八幡太郎義家八幡太郎義家八幡太郎義家八幡太郎義家はちまん太郎
仁田四郎忠常新田左中将義貞新田義貞仁丹四郎忠常につたよし貞
北條時政北條時政北條時政北条時政ほう條ときまさ
平親王将門平親王将門平相國清盛平親王将門へい相国きよもり
鳥海孫三郎巴御前徳川家康富樫左衛門とく川家康
鎮西八郎為朝鎮西八郎為朝鎮西八郎為朝千葉三郎兵衛ちくぜんのかみ秀吉
利非丸長光力士野見宿根龍蔵寺甲斐守立竜寺元晴りうざうじ甲斐の守
鵺退治糖田美濃守定景貫名次郎重忠沼田久輔ぬかの次郎
留海遠江守流人俊寛流人俊寛流人俊寛るり寺だん正
小幡入道織田上総介吉永小栗判官恩地左近を田信長
和田の義盛渡邊綱和田義盛和田左衛門義盛わたなべのつな
梶原景季甲斐の信玄主計頭清正加藤主計頭清正かとう清正
横川の覚範余吾将軍惟茂横川覺範横川覺範よがはのかくはん
平の知盛田原藤太秀郷武田信玄竹中半兵衛重晴たけだ信玄
蓮生法師蓮生坊直實蓮生坊熊谷蓮生坊れん生坊くま谷
曽我五郎時宗曽我五郎時宗相馬将門曽我太郎祐信そがの五郎時宗
常利入道筒井成妙筒井順慶筒井順慶つゝ井順慶
根井の大弥太根井大弥太行親根井大弥太根野井大弥太ねの井の小弥太
奈須の與市奈須與市宗高那須與市奈須野與一なすの与市
頼光朝臣頼光朝臣頼光源朝臣頼光朝臣らくぐわん寺右馬の守
武蔵坊弁慶武蔵坊弁慶武蔵坊辨慶武蔵坊弁慶むさしぼう弁慶
旧井の定光右大将源頼朝上杉謙信右大将頼朝うき田左金吾
今井の四郎猪早太忠澄猪の早太今川義元ゐの早太
能登守教経能登守教経能登守教経能登守教経のとのかみのり経
小山田太郎鬼小島弥太郎虎秀織田信長織田内大臣信永おやま田高家
楠別當正成楠判官正成楠正成楠河内判官正成くま坂長範
山本勘助山本勘介晴幸山本勘介入道山本勘介晴幸やま本かん助
俣野の五郎俣野五郎景久前田犬千代俣野五郎景久まから十郎左エ門
源三位頼政源三位頼政源三位頼政源三位頼政けんざんみより政
渕辺伊賀守船田入道洋全船田入道渕邊伊賀守ふくしま正のり
御所の五郎丸児島備後三郎高徳兒島高徳小早川左ヱ門高景こじま備後のかみ
江田の源蔵江田源三廣綱江間の小四郎遠藤武者盛遠江田の源三
手塚の太郎手塚太郎光盛手塚太郎光盛手塚太郎てづかの太郎
朝比奈三郎朝比奈三郎義秀朝比奈三郎朝比奈三郎義秀あさゐな三郎
佐藤忠信坂田金時真田幸村真田左ヱ門幸村さとう忠信
木曾義仲木曽冠者義仲木曽義仲木曽冠者義仲きむら又蔵
由良兵庫頭由利八郎文重湯浅五助由利鎌之助基幸ゆりわか大臣
妻鹿孫三郎目賀孫三郎長宗目賀孫三郎毛受兵輔めが孫三郎
三保谷四郎三浦大介義明源頼朝三浦小次郎みをのや四郎
篠塚伊賀守新中納言友盛新羅三郎義光新中納言知盛じんがう皇ごう
荏柄平太越後の謙信塩谷判官荏柄平太胤長ゑちごの謙信
樋口の次郎樋口治郎兼光日向守光秀樋口次郎兼光ひうがのかみ光秀
文學上人桃井播磨守直常文學上人毛利晋輔もんがく上人
妹尾の太郎瀬尾太郎兼泰瀬尾十郎庄司次郎重忠せの尾の太郎
駿河の次郎鈴木三郎重家駿河次郎薄田隼人兼相するがの次郎
京の次郎京小治郎祐兼 京極内匠 
江戸時代末期武者かるた③
江戸時代末期武者かるた②
江戸時代末期武者かるた①

これが明治前期(1868~87)になると、登場人物に微妙な変化が起きる。まず、人気の高かった平親王将門は、朝敵であったからか相馬将門に格下げになり、鎌倉幕府の武者は源頼朝や北条時政など、時には朝廷と対立、抗争があったが採用されているが、南北朝の争いでは楠正成の外に新田義貞や児島高徳は採用されるが、南朝と敵対した足利尊氏以下の武者は排斥されている。安土桃山時代の武士では、徳川方か反徳川方かという政治判断から解放されて、徳川家康、主計頭(加藤)清正、筒井順慶、織田信長、前田犬千代(利家)、真田幸村、日向守(明智)光秀らが登場する。ここに塩谷判官が登場するのもおかしい。塩谷高貞は実在の人物であるが、塩谷判官は歌舞伎の舞台上の役名である。忠臣蔵人気のすごさが分かる。また、幕末期の騒乱の勇者たちは勤皇派も佐幕派も忌避されている。そして、明治前期(1868~87)から中期(1887~1902)へと時代が変わると、あまり女子どもの関心をひかないであろう何人かの勇者が消えて、武勇の人ではなかったが武士勢力の頭目に納まった豊臣秀吉のような政治的なリーダーが現れて、武者かるたが武家歴史図鑑の色彩を帯びるようになる。神功皇后なども明らかにこの時代ならではの登場人物である。

明治時代初期武者かるた③
明治時代初期武者かるた②
明治時代初期武者かるた①
甲信越武者かるた

一方、絵札でも変化が起きた。明治前期(1868~87)のうちに、何人かの勇者の絵札で、甲冑姿の人物像が消えて、その者の事跡に関係する状景画の図像が現れる。新田義貞が消えて、鎌倉の稲村ケ崎で刀剣を海中に奉じて突入した故事にちなんで海と刀剣が描かれているのが代表例であろう。これにより、その武者に関する子どもの疑問に対して大人は、「剣を海に奉じて祈って戦って、鎌倉の幕府を滅ぼされた方よ」などと、その者の事跡は説明しやすくなるが、武者かるたは、ヒーロー比べという性格を薄め、歴史解説かるたの色彩を濃くしていくことになる。その先にあったのは、明治二十年代(1887~96)以降の学校教育の整備に対応した、武者だけでなく、天皇、皇族、公家や僧侶、政治家、女性、芸術関係者、名工なども登場する、新考案の、近代的な「国史かるた」との競争である。武者かるたは、用紙や印刷技法でも西洋から伝来した新時代のものを使ったかるたとの競争に敗れて、明治時代中期(1886~1902)18681912、木版かるたの時代の終わりとともに消えていった。

なお、「武者かるた」にはお国自慢のローカルなバージョンがあっても不思議ではない。例えば九州、福岡県の黒田藩での黒田二十四騎や、山口県の毛利藩での毛利十八将などが頭に浮かぶ。ただ、私が発見できたのは、「甲信越武者かるた」といえばいいのであろうか、武田信玄、上杉謙信を中心にした戦国時代の甲斐、信濃、越後の武士たちの「武者かるた」だけである。歴史に残る勇者の中には、出奔したり、反逆したり、身を持ち崩したりした者も多いから、取り上げ方が難しかったのであろうか。

明治時代前期武者かるた③
明治時代前期武者かるた②
明治時代前期武者かるた①
明治時代中期武者かるた③
明治時代中期武者かるた②
明治時代中期武者かるた①

以上が「武者かるた」史のごく簡単な説明であるが、書きながらある種の違和感がどうしても消えない。それは最終消費者である江戸時代や明治年間(1868~1912)の女子どもから見て、このかるたにどういう魅力があったのだろうかという疑問でもある。

このかるたの絵札は、ほぼすべてが甲冑姿の勇者を描いたものであり、木版かるたの小さな図像では大同小異で、畳の上に広げて遊技に使おうとすると個々の札の識別がとても困難である。だから、実際の遊技では、子どもたちは、図像よりも絵札にある丸く囲われた頭文字で識別していたのであろう。絵札の図像に変化が乏しくて魅力が薄いというのはかるたとしては大きな弱点である。

一方、字札では、人名の表記なので漢字になる。それも寺子屋レベルでは教わることのない難解な文字があり、また、複雑な読み方が求められる。そこで、このかるたでは、子どもでも使えるように人名を仮名交じりで書いたり、送り仮名を付けたりしている。子どもが、金釘流のたどたどしい読み方で遊ぶ情景が想像できる。文字札が読みにくいのも弱点である。

そして、それ以上に弱点なのは、このかるたの基本的な構成の原則である。歴史上の勇者を取り上げているが、それが江戸時代の一般の女性や子どもにどこまで理解できたのかが分からない。例えば、現代社会で相撲の力士かるたを考案したと想像してみよう。子どもたちに谷風や雷電の図像の札が理解不能なのは当然のこととして、昭和の大横綱、双葉山が分からないし、いやそれどころか、栃錦、若乃花、大鵬、輪島、北の湖、貴乃花の札でさえ理解ができない。プロ野球選手のかるたを考えたとして、もはや川上哲治、中西太、杉浦忠、野茂英雄さえ知らない世代の子どもたちに、青バットの大下弘、三百勝のスタルヒン、火の玉投手の稲尾和久、阪神の藤村兄弟などというかるた札を示しても興味が湧かないであろう。武者かるたはこれと同じで、江戸時代後期(1789~1854)から明治前期(1868~87)にかけての子どもたちにとって、そこでの登場人物たちは理解ができたのだろうか。どこにそれで遊びたいという欲求が生まれたのであろうか。私には、このかるたに人気があったとする理解が納得できない。

今日、この時期の「武者かるた」は比較的に数多く残されている。古書市、骨董市などで見かけることもあった。だが、それは、人気が高いので数多く制作されたから残ったのか、それとも意外に不人気で売れ残りが多く出て、それがデッド・ストックとなって長く玩具店の倉庫に眠った末に百年後に古書市、骨董市に出て来たのか、一考してみる必要があろう。

私は、山口吉郎兵衛に倣って、物品史料を重視するかるた史の研究を進めてきた。そこでは、たまたま現代にまで残った史料から往時の事情を推測することになるが、その史料が残された経緯に対する史料批判的な観点がないと、歴史像が歪んでしまう。たとえば、私は、研究の一環として、第二次大戦後のキャラクターかるたの蒐集に努力した。敗戦直後の新聞漫画の主人公をテーマにしたカルタに始まり、ラジオ放送、プロ野球やプロレスなどのスポーツ、映画俳優、人気歌手、少年雑誌の連載漫画の登場人物を経て、テレビ番組のヒーロー、ヒロイン、あるいは怪獣などを扱ったものが各社から競って出版され、毎年、二十種類以上に及んでいた。私は、一年に三十種類、五十年で一千五百種類のものが出版されたという想定で、それこそ全国で百軒以上のおもちゃ屋を訪ねて「古いかるた」を買い求めていた。数年かけて約一千種のものを集めることができたが、地方のおもちゃ屋で、倉庫の隅から出されてくる埃まみれの品物の多くは不人気で売れ残ったもので、どこの店でも共通して同じ不人気かるたがデッド・ストックになっていた。本当に人気があってその年を代表したヒーローのかるたは売り切れていて残されていないのでなかなか入手できなかった。高齢の店主がせっかく苦労して探し出してくれたのに、同じものはすでに入手した後なので買い渋る自分が自分勝手すぎて嫌であったが、家が不人気かるたのデッド・ストックの山になってしまうのも困るので、結局買わずに謝って店を出ることが多かった。

この経験からの教訓が、古いかるたは人気度に比例して残されているものではなく、むしろ反比例して売れ残ってしまったことが多いので、取り扱いに注意しないと歴史像が歪むということである。第二次大戦後の昭和後期には、よく、古書市や骨董市に戦時中の軍国主義丸出しのかるたが出て来た。現代史の研究者はしばしばそれを採り上げ、第二次大戦中は文化統制がいかに厳しく、軍国主義一色であったのかの史料として、戦争犯罪の決定的な証拠物件の様に否定的に説明している。だが、実際には、第二次大戦中も、普通のいろはかるたやお伽かるた、童謡かるたも出版されており、人々はそちらの穏やかなかるたの方を好んで買い取り、子どもらにも歓迎されて遊ばれ、傷んで消滅していった。他方で、戦陣訓かるたや英米撃滅かるたのような軍国主義色のものは、大量に印刷されたこともあったが不人気で売れ残った。あるいは事情があって義理で購入しても実際には使わず、納戸の隅に未使用の状態で残った。それが数十年後に骨董市に出てくるのは、一般の家庭での不人気、冷遇、軍国主義的な風潮への不同意への証であったと思われる。私は、この種の軍国主義かるたも買いあさっていたので大きなコレクションになったが、その山を見るときに、君たちはお上の押し付けでは子どもたちに愛されず、人気商品になれなかったのねと、当時の人々の冷ややかな視点を忘れたことはなかった。明治前期の武者かるたを見るときにも同じ気持ちが働く。武者かるたは、当時の子どもたちには距離感があったと思う。だから、これを当時の女性や子どもが歓迎して大人気であったかのように紹介する通俗な解説記事には違和感がある。

何だか、とても締りの悪いまとめになってしまったが、武者かるたについてはこんな風に思っている。ただし、これで武者かるたが滅んだのかというと、どっこいそう簡単ではなく、日清戦争を機会に、近代の軍人かるたに変身して息を吹き返す。だがそれは近代日本での出来事、別の文章に譲ろう。