こうして西日本のかぶカルタ系の賭博カルタ札をよく見てくると、そこに、江戸時代前期(1652~1704)の終わりころ、元禄年間(1688~1704)以降、江戸時代中期(1704~89)であろうか、とても古い時代に、かぶカルタ系では一組四十八枚で残らず青く描いたきんご賭博の専用札を作り、遅れて登場したまめカルタでは九度山札の祖型になるやはり一組四十八枚の賭博札を作り、さらにめくりカルタ系では金極札を制作していたカルタ屋、つまり「天下一」の「菊一」印のカルタ屋が浮かび上がってくる。このカルタ屋は後に九度山札に似せた四十枚一組のまめカルタを作り、四国地方向けに目札を制作した。

そして、「岸本文庫蔵オウル紋四十枚カルタ版木」の「一」の札の図像がすべて「オウルの一」であることにはすでに触れた。同じように、「四」の札でも、すべてが「オウルの四」であって「ハウの四」の図像は一枚もない。これはすなわち、「一」と「四」の役札を「ハウの一」と「ハウの四」にするという現代まで続いた伝統の図像の様式がまだ確立していない古い時期の図像のカルタ版木であることを物語っているのであろうか、それとも単なる制作者のミスなのであろうか。後者である可能性を否定しきれないことを恐れる

この点を見極めるように、ここで「オウルの三」と「オウルの四」について触れておこう。まず、「オウルの三」であるが、南蛮カルタでは、この札に描かれた三つの「オウル」紋標は、札の左上から右下に斜めに配列されており、右上と左下の空いた部分に花がある。これを基本の図像だとすると、日本では、初期の天正カルタでは、手描きのものも木版のものもこのモデルに忠実であるが、手描きのうんすんカルタは逆に右上から左下に配列してあり、江戸前期(1652~1704)の木版の天正カルタとめくりカルタでも右上から左下である。めくりカルタでは、地方札の小松札、金極札、福徳札、黒札が左上から右下であり、その他の地方札は右上から左下である。

もう一点は彩色の問題である。南蛮カルタの「オウルの三」では、三つの「オウル」紋標はいずれも、左半分が緑色で、右半分が赤色で彩色されている。日本でも、天正カルタについては該当する史料がないが、うんすんカルタでは手描きのものでも木版のものでも同じように彩色されている(但し赤色と緑色の左右が入れ替わっている)。ところが、めくりカルタでは、文化、文政期(1802~30)の古いものでは、上と下の二つの紋標は左が赤色で右が紺色に彩色されている一方で、中央の紋標は逆に左が紺で右が赤色に彩色されている。この交差式の彩色は幕末期(1854~68)のめくりカルタでは消えて、三つとも左半分が赤色で右半分が紺色という彩色になっている。

こうしてみると、「オウルの三」の図像では、左上から右下に下がり、三通の紋標の赤と紺の彩色は交差式であるものが古い、ということになる。そして実に、「菊一」を引き継いだ菱屋(仮称)の九度山がこのタイプなのである。さらに、江戸時代の目札はこれと同じであり、同じく江戸時代から明治年間(1868~1912)にかけての小丸札や大二札でも、配列は右上から左下に変化しているが彩色は交差式である。大二札は現代のものまで同様である。菱屋(仮称)の久度山札の発祥の古さが分かる。

もう一つは「オウルの四」である。天正カルタや「めくりカルタ」では、この札の四つの紋標は、いずれも右半分が赤色で、左半分が紺色に彩色される。ところが菱屋(仮称)の九度山札では、左側上下二つの紋標は左が紺で右が赤であり、右側上下二つの紋標は左が赤で右が紺である。つまり、内側が赤で外側が紺という彩色になっている。これも目札に引き継がれ、また一部のカルタ屋の小丸札も同様である。大二札はこれに組していない。ここも、九度山札の古さを示している。

以上のまめ札系の賭博カルタの研究をへて、西日本のかぶカルタ遊技の伝播の様相が見えてくる。私は、以前は、九度山札の菱屋(仮称)は、その分布、普及地域の広がりから、鳥取県内のローカルなカルタ屋であろうと推測して、同県を中心にその活躍の痕跡を探して成果なく終わった。特に、明治三十五年(1902)の骨牌税の成立、施行により、カルタ屋は営業税の対象となって税務当局によって記録されたので、何かこのカルタ屋かその後継者に関する情報がないかを探したが、山陰地方にはカルタ屋で営業していた者がなく、いかなる記録も発見できなかった。だが最近は、この菱屋(仮称)の地方札が、「菊一」印のもっと古いカルタ屋のカルタの後継であること、九度山のほかにこれに図像が酷似した、多分山陰地方での需要に向けた一組四十枚のかぶカルタも制作していたと思われること、「菊一」印のカルタの図像の影響を残している地方札が他のカルタ屋の制作する目札など広い範囲に伝わっていることなどを総合的に考慮して、「菊一」は西日本の各地方に広く各種の賭博系カルタを出荷していた大きなカルタ屋であり、菱屋(仮称)もその後継であろうと想定するようになった。そのようなカルタ屋は、京都か、あるいは大坂にあったと思われるが、松葉屋やほてい屋のような京都の老舗がまめカルタに手を出したとも想定しにくいので、大坂のカルタ屋と考えた方が良いように思っている。そして、菱屋(仮称)も大坂であった可能性が高い。菱屋(仮称)が山陰地方のカルタ屋であるとした旧説を撤回させていただきたい。

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