(四)鬼札と幽霊札

めくりカルタの遊技法を見ると、「ゆうれい札」と「鬼札」が重要な働きをしている。これらのカードがめくり札に添付されるようになったいきさつについては、上で扱った初代中村仲蔵の回顧録『月雪花寝物語』に重要な記述がある。仲蔵によると、めくりカルタに「仲蔵」ができた由来であるが、まずキンゴに「狐札」ができて、「十五」をこえて「十六」になってしまった時でも狐札があれば「十五」に扱って勝にできた。そのための狐札もカルタ問屋で作った。それからゆうれい札ができ又鬼札ができたのである。猟師町で興行していた時だが、雨降りの節は芝居小屋が開けないので暇つぶしの「めくり」になった。当時、芝居の繁盛は仲蔵が来てくれたからだということで仲蔵大明神様といっていたので、めくりで鬼札を「仲蔵」と呼び、鬼札が出ると「仲蔵が出た。仲蔵が出た」と言うようになった。その後江戸に帰って行徳河岸の網子宿で鬼札を仲蔵、仲蔵とよぶようになった、と続く。この時期の狐札については、残念ながら当時のものも、それを継承した現代のものも、残存するカルタ札を見たことがない。幽霊札や鬼札は現代の地方札にまで残っているが、狐札はすでに全面的に鬼札、幽霊札に変化してしまったということなのであろう。

鬼札の機能は西欧のトランプのジョーカーに近い。ただ、ジョーカーは十九世紀中期以降の発明であり、めくりカルタの鬼札の考案はそれより百年も以前である。鬼札は世界最古のジョーカーであるし、もしかすると、ジョーカーは幕末の開国後に日本の鬼札にヒントを得た考案であったのかもしれない。鬼札は近代の賭博系のカルタにも引き継がれていて、「鬼の空念仏」の図像のものと「鬼に金札」の図像のものが多いが、その他の図像のものも少なくない。分化した理由も明らかでない。

鬼札はめくりカルタの遊技では大事な役割のカードであったのに、その運命が危機に曝されたことがある。曳尾庵『曳尾庵雑記』[1](『我衣』巻一下)に「同(明和)五子年(1768)、‥‥めくりと言物、後ニハ鬼を加へ鬼入といふ。其後かるた御吟味有之、八丁堀山城屋と云かるた問屋入牢、此時鬼入何となく止ム」とある。寛政の改革での取り締まり強化で鬼札の使用が何となく消えていったというのである。しかし、実際には、江戸時代後期以降も、めくりカルタ札は鬼札を添えて売り出されており、現代まで残った「地方札」にも鬼札は付いている。曳尾庵の憂慮は一時的なものに終わった。

 


[1] 曳尾庵「曳尾庵雑記」(『我衣』巻一下)『早稲田大学図書館紀要』第二十一号、早稲田大学図書館、昭和五十五年、三〇頁。