こうして、過去数十年の研究の成果をまとめてみて、改めて、多くの人々、多くの史料との幸運な出会いを実感している。私がかるたに最初に学術的な興味を感じたのは、昭和四十八年(1973)、法政大学から法律学の在外研修でイギリス、ロンドン市のロンドン大学高等法学院に派遣された三十一歳の時であった。私はロンドン市内のデパート、ハロッズの店頭で、見たことのないトランプを発見して興味をそそられた。すぐに、それがイタリア・ミラノ地方のカルタで、当時大量にイギリスに流入していたイタリア人出稼ぎ労働者とその家族向けのものであることを知った。そこで、ヨーロッパ各地域の文化史への興味のままに、各国、各地を訪れて類似の未知のカルタを探し、参考文献を探して読破しているうちに、かるた史に関心を持つ多くの研究者と知り合い、その活動に参加できるようになった。

私が幸運であったのは、当時がちょうどヨーロッパでカルタ史研究が盛んになった時期であり、この年に、世界で初めてカルタ史研究の国際学会である「カード協会」(Playing Card Society、後にInternational Playing Card Society)が設立されており、中心のリーダーであったイギリスのシルビア・マン(Sylvia Mann)が、アメリカのヴァージニア・ウエイランド(Virginia Wayland)とともに、ポルトガル発祥のエースに龍の図像のあるドラゴン・カードが大航海時代にアジアに進出し、ペルシャ、インド、スリランカ、ジャワ、スマトラ、スラウェシュなどを経て、日本に到達していた歴史を解明して、著書The Dragons of Portugal.を発表していたことである。マンとウェイランドは調査の過程で、ヨーロッパでは十八世紀までに滅び、南米の旧ポルトガル植民地のブラジルなどでも二十世紀に衰退したエースに龍の図像のあるパターンのカードが日本では今でも「うんすんカルタ」や賭博系カルタとして盛んに制作され、遊技され続けていることを発見した。15世紀、16世紀のヨーロッパのカルタが極東の小島でまだ生き延びていた。それは、世界中のかるた史研究者にとって、シーラカンスを発見した古代魚研究者のような喜びとなった。そして、この発見を契機に、それまでほとんど知られていなかった日本のカルタへの関心が高まっている日本ブームの最中であったので、現地日本からの新参者である私の参加は大いに歓迎され、多くの質問が寄せられたが、研究歴のない私には何一つ答えることができなかった。当時は、日本のカードの上下を教えたり、日本語の文字を解読して翻訳したり、日本の友人に連絡して資料を取り寄せて紹介したりする、ヨーロッパ人の研究者から見ればまさに「現地人」程度のことしか協力できなかった。

だが、それでも、シルビア・マンにカルタ史学を親しく教えてもらうことができたし、加えて、ドイツのカルタ史研究の主役であったデトレフ・ホフマン(Detlef Hoffmann)とは世代が近いので気が合って家族ぐるみの友人関係になったし、同じくドイツ・ビールフェルト市のドイツ・カード博物館(Deutsches Spielkarten Museum)のキューレーター、運営責任者であったマーゴ・デトリヒ(Margot Dietrich)には同博物館の完全に自由な出入りを許され、カルタ史研究のいろはから教わることができた。この他、ラテン系カルタの遊技に詳しいイギリスのマイケル・ダメット(Michael Dummett)、日本の花札ブランドの研究に情熱を傾けていたジョージ・ハットン(George Hatton)、イベリア半島のカルタ史に熱中していたトレボ・デニング(Trevor Denning)、フランスの研究者の中心であったテリィ・デュパリス(Thierry Depaulis)、ドイツカルタ史の解明に執念を燃やしていたシグマ・ラダウ(Sigmar Radau)、オランダカルタ史の著作で名前が通っていたハン・ヤンセン(Han Jansssen)、イタリアのカルタ史に詳しく歴史資料の復元にも力を入れていたヴィト・アリエンティ(Vito Arienti)、人柄の優しい中学校教師、スイスのマックス・ルー(Max Ruh)、インド・カルタ史の孤高の研究者、オーストリアのルドルフ・フォン・ライデン(Rudolf von Leyden)、アメリカ人で大著The Encyclopedia of Tarotの著者、US Games Systemsのスチュアート・カプラン(Stuart Kaplan)らも仲の良いメンバーであったし、世界各国のトランプ制作会社の経営者、各地の著名なカルタ博物館施設の研究者やキューレーター、それに、イギリスに行くときはいつも立ち寄っていたロンドンのInterColのヤシャ・ベレジナー(Yasha Beresiner)や湖水地方の町、ケンダルのKendal Playing Card Salesのモーリス・コレット(Maurice Collett)など各国の古いカルタ、トランプのディーラーも参加していた。当時の名簿を開けば、行間に次々と懐かしい友人たちの面影が浮かぶ。

当時、イギリスは深刻な「イギリス病」の危機にあり、その分、外国人の私には垣根が低く、毎年の様に行き来していた。町では、クイーンの「ボヘミアン・ラプソディ」が溢れており、映画館には「ゴッド・ファーザー」の余韻が残る中、「エマニエル夫人」のヒットが続いていた。多くの若者が、1960年代後半のベトナム反戦運動、スチューデント・パワーの政治活動に疲弊して、70年代には社会の文化を見直す方向に走った。街頭音楽、同性愛、暴力、麻薬、性的放縦など、60年代まではタブー視されていた文化が息苦しい社会に抑え付けられた若い世代に注目されていたが、そこに加わるには少しだが年上すぎた私たちのグループは、長らく正統派の歴史学で無視されてきたカルタ遊技文化史の再構築を目指すことで、同じく息苦しい社会からメンタルにドロップ・アウトしていたのだろう。その後、私はそれまで程頻繁にヨーロッパに行くことができなくなり、今世紀には学会誌の読者に成り果てていたが、今、二十年に近い時を経て再会すれば、お互いの老いを見て見ぬふりであろうが、物故した友人たちを偲びながらさぞかし懐かしい昔日の夢に浸ることができるであろう。こうした多彩な研究者や仲間の集まる国際サークルとの出会いがスムースにできたことをとても幸運だと思っている。

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