上・蝙蝠龍、下・火焔龍
オウル紋の彩色の違い(上・蝙蝠龍、下・火焔龍)

「蝙蝠龍」と「火焔龍」の違いはなぜ生じたのか。その答えのヒントは二つのグループのカルタ札に認められる、いくつかの図像上の食い違いにある。まず「オウル」紋の彩色である。「蝙蝠龍グループ」のうんすんカルタでは、「オウル」紋の彩色は左右に分けられ、向かって左側の半円が赤色、右側の半円が緑色に彩色される。いっぽう、「火焔龍グループ」のうんすんカルタでは、「オウル」紋は青灰色を中心に何色かで同心円状に彩色される。両グループ間での違いは明確である。そして、「オウル」紋の左半分と右半分を赤色と緑色に分けて彩色するのは南蛮カルタの「オウル」紋の彩色方法であるし、それを直輸入した六條坊門(五條橋通)の木版カルタ屋が作る賭博系カルタの彩色方法も同じである。ここで作られる木版の賭博系の「カルタ」では、江戸時代から今日に至るまで、ほぼ例外なく「オウル」紋は左が赤色で右が紺色に彩色されている。「蝙蝠龍グループ」のカルタ札の方がヨーロッパのカルタ札の図像に近いことになる。

なお、令和元年のサントリー美術館の展示「遊びの流儀 遊楽図の系譜」展に、一組二十九枚の「うんすんカルタ」[1]が展示されている。展覧会では、前期に二十九枚中の十二枚が、昭和前期頃と思われる額装に収められて 展示されており、その際に図像の退色を補って加色してあり、残りの十七枚は、額装以前の保存状態であろう、小襖への貼り込みの状態で後期に展示されている。だが、両者は、カルタ札のサイズが日本のカルタ札としては異常に巨大で、縦十一・二センチ、横六・八センチというサイズは、ヨーロッパからアジアに伝来した一組四十八枚のカルタよりも大きく、むしろ当時のヨーロッパにおけるタロットのカードの大きさに近い。

そして、二十九枚の図像を見ると、ドラゴン・カードは蝙蝠龍であり、「オウルの六」が正しく右肩上がりで、元々は人の横顔が描かれていた左上隅と右下隅にはそれに代わる模様が描き加えられているなど、ヨーロッパのカードに近いものを写したであろう関係がうかがわれる。また、布袋が手に棍棒をもち、米俵の上に立つという図像は日本のうんすんカルタの様式にも叶っている。うんすんカルタ史の物品史料としては価値が高いように見える。

ところが、紋標ハウの数札を見ると、「ハウの六」では中央にひし形があり、そこには組みひも模様が描かれているが、「ハウの八」と「ハウの九」では、ひし形が消え、棍棒が交差する姿が描かれている。これは奇妙な事態である。天正カルタやうんすんカルタでは、紋標ハウの六から九の数札で、中央にひし形を描くものと、ひし形の中に組みひもを描くものがあり、またそうせずに棍棒を交差させて描くものもある。これは絵師の選択であるが、どれを選ぶにせよ、ひとたび決定されたら「ハウの六」から「ハウの九」までは同じに描く。ところがこのカルタでは、「ハウの六」にはひし形があり、「ハウの七」は札が残されていないので分からないが、「ハウの八」と「ハウの九」ではひし形が消滅して棍棒が交差している。これではデザインが一貫せず、統一性が失われていて違和感が残る。また、「ハウの二」「ハウの六」「ハウの八」の棍棒は緑色であるが、「ハウの九」の棍棒は赤い。これも約束事に反する。

そして、紋標オウルの描き方である。このカルタでは、紋標オウルの札のオウルは、まるで柑橘類を真横に二分した断面のように描かれている。そこにあるのは八房の断面図であり、彩色は、規則正しく時計回りに赤、黄、紺、緑の四色が二度繰り返されている。この図形、彩色はともに初めて見るものである。特に彩色が四色で、これに黒色も加わって五色が紋標の描写に使われるのは、他に例がない。つまり、紋標オウルの描き方を見ると、このカルタは、後世の補正、加色が目立ち、江戸時代のうんすんカルタを原形のままに保管して残し伝えたものであるのかには疑問が残る。したがって、このカルタを、上に列挙した数点の古いうんすんカルタの遺品と同列において比較検討することができない。

なお、オウルの絵札における紋標オウルの描き方は数札と異なっており、複数の絵師がかかわっていたのか、あるいは後世に一部の紋標を補正、加色したのかと思わせるところがある。また、紋標コップでは、紋標の彩色が一貫していない。さらに紋標の中央にあるベルト状の部分は、そこに縦縞が描かれるはずであるが、このカルタでは、そこには縞はなく紺無地である一方で、その上下の赤色に描かれる部分に繊細な縦縞がある。この部分に縦線を描いたカルタは見たことがないので奇妙である。さらに、紋標グルでは、数札と絵札で、紋標が右回りか左回りかが同じ一組の中で異なっており、これも奇妙である。

カルタの図像において、紋標は一組のカルタで五十回近く繰り返し描写されるが、紋標であるがゆえに模様に変化が生じにくく、その意味で定型性が強い。描く側からすれば平凡な部品であるが、それだけに前例がそのまま引き継がれて地域的特性や年代の違いが鮮明に出るので、史料の測定の上では重要視される部分でもあるのだが、このカルタではそこが不自然にぐらついていて、判断に苦しまされる。また、絵札においても、ソウタ、ウマ、キリの札のいかにも模写したという感じの稚拙で平面的な描写と、ウンやスンの札の、描線の柔らかな、立体感のある、ほとんど近代の絵画の描法に似た美しい図像の描写も別人の作のように見えるし、「ハウのソウタ」が被る兜や、「オウルのソウタ」が被るカンカン帽のような帽子には相当の違和感が残る。

総じていえば、今回展示されたうんすんカルタ二十九枚は、元禄年間(1688~1704)以降の日本にこれほど巨大なかるた札があったとすれば、札の小型化という趨勢に逆行しており、それ故に、うんすんカルタとタロットの関連性など、新しい研究の視点に導くこともあり、関心を強く惹かれる好史料でありえた。だが、後世の補正、加色の加工であろうか、オリジナルな図像が損なわれており、補修者の意図が理解しがたい混乱が生じていて、歴史史料としては扱いにくい。きわめて残念である。


[1] 展覧会目録『遊びの流儀 遊楽図の系譜』、サントリー美術館、令和元年、一三九、一四〇頁。

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