五.昭和後期の骨牌税法

昭和二十年(1945)の敗戦後の日本社会では、混乱の中で小賭博が流行し、また、花札などの主要な供給地であった京都市が空襲の被害を免れたのでカルタ製造業は急激に増大した国内需要に対応することができた。また、麻雀は、ギャンブル性の高いリーチ麻雀の出現により、やはり大きく流行するようになった。こうした風潮をよく思わない政府は、骨牌税の課税を強化して、一種の禁止税の意味合いを帯びさせるようにした。すなわち、昭和二十一年(1946)八月三十日の「骨牌税法」改正(昭和二十一年法律第一四号)で税額をカルタ一組三円から十円に増額し、麻雀牌の税額は一組二十円を百円に増額した。さらに昭和二十二年(1947) 三月三十一日の「骨牌税法」改正(昭和二十二年法律第二九号)で、税額をカルタ一組十円から三十円に増額し、麻雀牌では一組百円を三百円に増額した。

その後、インフレの昂進もあって課税はさらに強化され、昭和二十二年(1947)十一月三十日の「骨牌税法」改正(昭和二十二年法律第一四二号)で税額をカルタ一組三十円から百円に、麻雀牌では一組三百円を千円に増額した。翌年の昭和二十三年(1948)に入るとこの年七月七日の「骨牌税法」改正(昭和二十三年法律第一〇七号)で、カルタ類の税額は一組百三十円の最高額に達した。麻雀牌でも一組千五百円という高額に設定されたが、こちらのほうはその後も増額を繰り返している。

その後、世の中が収まってきたことに対応して、カルタ類の課税は軽減された。昭和二十六年(1951)三月二十八日の「骨牌税法」改正(昭和二十六年法律第四二号)ではカルタ類一組の課税額が百三十円から五十円に減額される一方で、麻雀牌では一組千五百円で据え置きとされた。また、この法改正に際して、印紙貼付に代える「骨牌税証印」も導入された。

ついで、昭和二十九年(1954)三月三十一日の「骨牌税法」改正(昭和二十九年法律第四三号)では、カルタ類の税額一組五十円を六十円に増額するとともに、麻雀牌では象牙製が一組六千円、牛骨製は一組四千円、その他の材質のもの一は組二千円に増額された。

 

 

なお、この間、昭和二十五年(1950)秋にアメリカ向けのトランプ、カルタの輸出再開の許可が出され、ハワイ、アメリカヘの輸出が始まった。アメリカでは、第一次大戦終了直後の時期から、関税法の要求で輸入品には原産国表示がつけられることとされたので、日本からの輸出品には第二次大戦前から MADE IN JAPAN と表示されていたが、第二次大戦後の輸出再開後の物には MADE IN OCCUPIED JAPAN と表示することとされた。