ロバート・スチュワート・ キューリン
ロバート・スチュワート・ キューリン

明治年間に日本のカルタを研究したもう一人の外国人がアメリカの民族学者、ロバート・スチュワート・キューリン(Robert Stewart Culin)である。キューリンはアメリカの万博協会のスタッフとして採用されて博覧会展示を担当する事務官であったが、在米中国人社会の生活やアメリカ先住民族、アジア太平洋地域の諸民族の生活に関心が深く、とくに、諸民族のゲームに類似性があることが諸文化の類似性をよく示すとしてゲームの比較研究に集中した。そのゲーム研究はとくに中国、朝鮮、日本の東アジア三国のゲームを焦点に置いたものである。当時、イギリスの中国、韓国駐在外交官で活躍していたウイリアム・ヘンリー・ウィルキンソン(William Henry Wilkinson)もまた中国、韓国のゲームに関心が深く、遊技具のコレクションに熱心に取り組むとともに論文を発表していた。キューリンはこのウィルキンソンの全面的な協力を得て、万博の展示の事物を充実させるとともに、1895年に『朝鮮のゲーム・中国、日本の対応するゲームの記録とともに』[1]を公刊した。

キューリン『朝鮮のゲーム・中国、 日本の対応するゲームの記録とともに』
キューリン『朝鮮のゲーム・中国、 日本の対応するゲームの記録とともに』

ここでは、朝鮮及び中国の遊技に関してはウィルキンソンの提供した情報が使われ、また朝鮮のチェスという項目などではウィルキンソンの論文が転載されていた。しかし、日本に関してはウィルキンソンの研究、蒐集は及んでおらず、キューリンは自ら来日して調査、蒐集にあたった。この本の序文を見ると、協力者として謝辞を述べられている十六人のうちで日本人は八人を数えている。他にはアメリカ人とインド人が多く、中国人の協力者は一人、朝鮮人は皆無であるので、キューリン自身の調査が日本中心であったことが分かる。そして、日本人の八名には、各々、富山(越後)、会津、東京、静岡、長崎、東京、鹿児島、備後という地名が付されているが、これが現地で協力を得ていたとするとキューリンの日本調査は広範囲に及んでいたことになるが、単に東京などで面識を得た協力者の出身地を表示しただけのことであるのかもしれない。

なお、キューリンはその後数回東アジアに来ており、明治後期(1903~12)に来日した折に京都で有望な若手画家を見出して訪米を勧めたので単身渡米したのが竹久夢二であった。竹下はキューリンに連絡するよう努力したが、キューリンの勤務先のブルックリン博物館をスミソニアン博物館と誤解していたのでうまく連絡できず、結局カリフォルニアの日系人家庭に寄宿したのちにヨーロッパに渡った。

キューリンは『朝鮮のゲーム』の中で、日本のカルタについて、また花札について詳細に紹介し、その後に、めくり札、いろはがるた、歌がるた、詩かるたについて数行程度の簡略な紹介をしている。花札については遊技法の説明が長いが、そこで指摘しているように、もっぱら明治二十二年(1889)刊の前田多門『花がるた使用法』を引き写していて、このカルタの歴史や社会的な背景に筆が及んでいるものではない。


[1] Stewart Culin, “Korean Games with Notes on the Corresponding Games of China and Japan” University of Pennsylvania, 1895.

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