私は名指しで「論より証拠」とまで言われたので、論証をもう一度整理しておこう。私は、①百人一首の歌集では、現存最古のものと言われる『為家本』、室町時代の最高権威であった『宗祇抄』、安土桃山時代に断絶の危機から救った『幽斎抄』、「古今伝授」にならった「百人一首」の「御所伝授」の新伝統となった『後陽成天皇百人一首抄』、『後水尾院抄』、『中院通村抄』などを実際に調査して「証拠」として、二條家に由来した皇室の「百人一首」は標準型であることを「確認」した上で、②世阿弥光悦、角倉素庵が土佐派の絵師と組んで寛永年間(1624~45)までに開発した史上初の歌人図像付きの版本である『素庵百人一首』では、歌人名と和歌本文に別異の表記を持つ二條家系統ではない冷泉家流の百人一首歌集が用いられていることと、その歌人画は土佐派の絵師による三十六歌仙絵、時代不同歌合絵、釈教三十六人歌仙絵からの転用であることを調査して新たに「証拠」としたうえで、それが後水尾天皇の朝廷の反幕府的な気分に合致していることを新たに「論証」した。③私はさらに、江戸時代初期(1603~52)に三十六歌仙絵を主な題材として、一方で寺社の奉納絵額とする流行が起き、また、歌人絵付きの歌仙手鑑が大流行して大名、公家の女性の間に多量の需要が生じ、これを真似する裕福な町衆も生じたこと、この歌仙手鑑では、土佐派に伝わる歌仙絵の忠実な模写が正統の証明となり、土佐派の歌人像の画帖が上流階級の家庭に広く普及したことを調査して新たに「証拠」としたうえで、それが「百人一首かるた」の世界に及び、江戸時代前期(1652~1704)になると『素庵百人一首』における土佐派の歌人絵を手本とする「古型百人一首かるた」が成立したことを新たに「論証」したうえで、④歌人絵における土佐派の覇権に挑戦した江戸狩野派の絵師たちが、刷新の眼目として、天皇、皇族の歌人に関する土佐派の歌人絵の構図の安直さを批判して、歌人の姿勢、表情を改め、その衣裳を改め、繧繝縁(うんげんべり)の上畳の描写を改めた歌人像を展開し、それが幕府によって称揚されて大名家や公家の婚礼調度品として採用されることを通じて奪権に成功した事情と、百人一首の版本の世界で菱川師宣が『素庵百人一首』の権威に挑戦して『百人一首像讃抄』以降の版本、特に延宝八年(1680)の『小倉山百人一首』で天皇、皇族の歌人画を刷新したものを世に問うて元禄年間(1688~1704)までには圧倒的な影響力となった事情を調査して新たに「証拠」としたうえで、それがかるたの世界に及んで、元禄年間(1688~1704)以降には師宣の版本を手本とする標準型のかるたへと転換されたと新たに「論証」してきた。

こうした意味での私の新たな論拠の提示と新たな論証が、なぜ「論より証拠」と揶揄されるほどに「証拠」に欠けた空論であるというのか。私が述べた事実が「証拠」にならないというなら、それに代わるどのような「証拠」があるというのか。そんな便利なものは世の中に存在しないのだが、これまではまだ新たな「証拠」の提出も、新たな「論証」もなされたと知られていない。かるた史の研究者がそれを世に知らせることなく秘かに所持しているのなら、研究史の前進のために隠さずに広く公開して示してもらいたい。

 なお、吉海は、「浄行院かるた」の文字の表記が寛永年間(1624~44)頃とされる近衛流の手書き百人一首の表記と一致していることをもって、「浄行院様御遺物かるたは近衛流百人一首に依拠していると言いたくなります。それは自重するにしても、少なくとも浄行院様御遺物カルタは異本百人一首に依拠していないことが明らかになりました。江橋氏の魅力的な説は、百人一首本文の校訂作業をきちんと完成させた後でなければ、踏み込みにくい問題だったのです」[1]として、「古型百人一首かるた」に関する私の指摘は素人の誤りで、百人一首本文の校訂作業をきちんと完成させた専門家の自分が正しいとしている。

誤解がないように念のために書いておくが、「浄行院かるた」は、まず絵師が『素庵百人一首』に依拠して歌人像を描いた後で、達筆の(しかしかるた屋に雇われた)書家(公家か?)が歌人名と和歌の本文を書いたものである。その際にこの書家は、『素庵本』の表記を手本にせずに、細川幽斎を通じて皇室でも採用された正統派の二条家に伝来した百人一首の表記を手本に採用した。これは特異な事例であるが、この書家に、雇い主のかるた屋に対して二條流が正統であるべきだとする自分の意見を押し通す力があったということであろう。このかるたの達筆ぶり、筆の運びを見ているとその様な書家のプライドを感じる。

一方、近衛家は、近衞信尹の流れをくむ書の名家であり、同じ細川幽斎の弟子筋として皇室で通用する二條流の百人一首の表記を採用した近衛流の書風の巻子を制作した。つまり、両者は、どちらかがどちらかに依拠したという関係ではなく、細川幽斎を共通の師とする同門の系統という関係であったのであろう。「浄行院かるた」の筆者が具体的に当時流通していたどの写本を手本にしたのかは分かっていない。類似したものが二点あると直ちに親子関係とか師弟関係を想定する吉海の史料操作こそが初歩的な誤りである。


[1] 吉海直人『百人一首かるたの世界』、新典社、平成二十年、六九頁。

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