(一)役者絵かるた

それならば、江戸時代後期(1789~1854)に成立したいろは順の「芝居遊びかるた」としてはどのようなものが存在していたのか。第一のグループとしては役者絵のミニチュア版のような「役者絵かるた」がある。参考例として三代豊国が嘉永四年(1851)以前に描いて、江戸日本橋堀江町の版元「伊場仙」から「教訓いろはたとゑ」(その1、その2、その3)[1]と題されて出版されたかるた絵のシリーズを見ると、いろは四十八種の譬えが字札になっていて、それに対応する絵札はその句意にちなんだ歌舞伎の登場人物の似顔絵とその名前になっている。例えば字札「論よりしやうこ」に対応する絵札は五代目市村竹之丞が演じる「伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」の細川勝元であり、その似顔絵に小さく「細川勝元」と文字が足されていて、見る者にも「論より証拠」にふさわしいのはなるほどこの役者が演じるこの場面だと納得が行く。

教訓いろはたとゑ③(三代豊国画、伊場仙版)
教訓いろはたとゑ②(三代豊国画、伊場仙版)
教訓いろはたとゑ①(三代豊国画、伊場仙版)

この図像は大柄で、今日のサイズ表記で言えばはがき大、美濃版の用紙に上下二組、四枚のかるたが描かれている。これを実際にかるたの遊技に使うのは適当ではなかったと思われるが、今日まで残されているものの中には専門の職人によって裏紙も付けられ、かるた状に切り分けて仕立てられているものもあるから、実際にどこまで遊技に使われたのかは分からないが、かるたに仕立てられたことまでは確かである。そこでこれを「役者絵かるた」の一例として取り扱う。

この役者絵かるたの図像は国立国会図書館、早稲田大学演劇博物館とアメリカ、ボストン美術館のホームページに各々掲載されており、一般に利用可能である。私もそれらを用いた。なお、早稲田大学演劇博物館には二セットが所蔵されており、( )内は同博物館所蔵の欠けのある別セット(006)の調査結果である。MFAはアメリカ、ボストン美術館所蔵セットにつき欄外の付箋に手書き文字で添えられていた役者名表記をもとにした同美術館調べの結果である。

 

「教訓いろはたとゑ」(三代豊國画、伊場仙版、嘉永四年)

「祝(いわ)ひは千(せん)ねんまん年(ねん)」・「三番叟」
 四代目中村歌右衛門、(MFA:四代目中村歌右衛門)

「ろんよりしやうこ」・「細川勝元」
 十二代目市村羽左衛門(五代目市村竹之丞)、(MFA:五代目市村竹之丞)

「花(はな)はさくら木(ぎ)人(ひと)は武士(ぶし)」・「熊谷次郎直實」
 五代目市川海老蔵、(MFA:五代目市川海老蔵)

「似(に)たものは夫婦(ふうふ)」・「源蔵女房戸浪」
 三代目藤川友吉、(MFA:三代目藤川花友)

「佛(ほとけ)の顔(かほ)もさんど」・「梅の由兵衛」
 三代目嵐吉三郎(五代目沢村長十郎)、(MFA:五代目沢村長十郎)

「へびのなまころし」・「庄司娘おみつ」
 二代目尾上菊二郎(初代坂東しうか)、(MFA:初代坂東しうか)

「とうにおちず語(かたる)におちる」・「餝間宅兵衛」
 三代目嵐吉三郎(八代目市川団十郎)、(MFA:八代目市川団十郎)

「近(ちか)しき中(なか)にも礼義(れいぎ)あり」・「梅王女房はる」
 二代目尾上菊次郎、(MFA:二代目尾上菊次郎)

「律義(りちき)ものの子(こ)だくさん」・「百性白太夫」
 初代守田勘弥、(MFA:十一代目森田勘弥)

「ぬす人(びと)の昼寝(ひるね)」・「石川五右エ門」
 四代目市川小団次(四代目市川小団次)、(MFA:四代目市川小団次)

「るいは友(とも)をよぶ」・「雷庄九郎」
 八代目市川団十郎(八代目市川団十郎)、(MFA:八代目市川団十郎)

「おん[2]をあだ」・「沢井俣五郎」
 五代目松本幸四郎(三代目関三十郎)、(MFA:三代目関三十郎)

「わざはひも三年(さんねん)をけば役(やく)にたつ」・「いがみの権太」
 五代目市川海老蔵(五代目市川海老蔵)、(MFA:五代目市川海老蔵)

「かいるの子(こ)はかいるになる」・「大星力弥」
 三代目岩井粂三郎(三代目岩井粂三郎、(MFA:三代目岩井粂三郎)

「夜目(よめ)とほめ笠(かさ)の内(うち)」・「名古屋山三」
 五代目沢村長十郎(欠落)、(MFA:五代目沢村長十郎)

「たまにきず」・「新胴娘夕しで」
 三代目岩井粂三郎(欠落)、(MFA:四代目尾上梅幸)

「良薬(れやうやく)は口(くち)ににがし」・「高橋瀬左エ門」
 四代目坂東彦三郎(四代目坂東彦三郎)、(MFA:四代目坂東彦三郎)

「袖(そで)ふりあふも他生(たしやう)のえん」・「万長娘おこま」
 三代目岩井粂三郎(三代目岩井粂三郎)、(MFA:三代目岩井粂三郎)

「杖(つゑ)の下(した)へまはる子(こ)」・「苅屋姫」
 三代目藤川友吉(初代市川新車)、(MFA:三代目藤川花友)

「念(ねん)にはねんをつかへ」・「鬼ケ嶽」
 三代目嵐吉三郎(三代目嵐吉三郎)、(MFA:三代目嵐吉三郎)

「生酔(なまえい)ほん生(しやう)たがはす」・「後藤兵衛」
 四代目中村歌右衛門(四代目中村歌右衛門)、(MFA:四代目中村歌右衛門)

「らくあれば苦(く)あり」・「秋月娘深雪」
 五代目瀬川菊之丞(初代坂東しうか)、(MFA:初代坂東しうか)

「無利(むり)が通(とほ)れば道理(だうり)ひつこむ」・「菅丞相」
 十二代目市村羽左衛門(五代目市村竹之丞)、(MFA:五代目市村竹之丞)

「うそから出(で)たまこと」・「小栗宗丹」
 初代坂東竹三郎(初代坂東竹三郎)、(MFA:初代坂東竹三郎)

「一寸(いつすん)先(さき)[3]はやみ」・「部屋仕お初」
 三代目岩井粂三郎(三代目岩井粂三郎)、(MFA:三代目岩井粂三郎)

「のどもとすぐれば暑(あつさ)わするゝ」・「安達元右エ門」
 四代目大谷友右衛門(四代目大谷友右衛門)、(MFA:四代目大谷友右衛門)

「思(おも)ふねん力(りき)岩(いわ)を通(とほ)す」・「曽我五郎時致」
 八代目市川団十郎(八代目市川団十郎)、(MFA:八代目市川団十郎)

「くさい物(もの)身(み)しらず」・「在原屋業平」
 初代中山市蔵(初代中山現十郎)、(MFA:初代中山市蔵)

「やみにてつぽう」・「斧定九郎」
 三代目嵐吉三郎(三代目嵐吉三郎)、(MFA:三代目嵐吉三郎)

「負(まけ)るはかち」・「稲川次郎吉」
 五代目沢村長十郎(五代目沢村長十郎)、(MFA:五代目沢村長十郎)

「兄弟(けうだい)他人(たにん)のはじまり」・「舎人梅王丸」
 六代目市川高麗蔵(欠落)、(MFA:七代目市川高麗蔵)

「文(ふみ)をやるには書(かく)手[4]はもたぬ 」・「小野道風」
 三代目嵐璃寛(欠落)、(MFA:三代目嵐璃寛)

「子(こ)は三界(さんがい)のくびかせ」・「浅倉當吾」
 四代目市川小団次(四代目市川小団次)、(MFA:四代目市川小団次)

「えてに帆(ほ)をあげる」・「毛剃九右エ門」
 五代目市川海老蔵(五代目市川海老蔵)、(MFA:五代目市川海老蔵)

「貞女(ていぢよ)両夫(りやうふ)にまみへず」・「照手姫」
 二代目尾上菊次郎(二代目尾上菊次郎)、(MFA:二代目尾上菊次郎)

「悪(あく)に強(つよ)きは善(ぜん)にもつよし」・「遠藤武者盛遠」
 八代目市川団十郎(八代目市川団十郎)、(MFA:八代目市川団十郎)

「三(さん)べんまはつて煙草(たばこ)にせう」・「大仁坊」
 三代目浅尾奥山(三代目浅尾奥山)、(MFA:三代目浅尾奥山)

「聞(きい)て極楽(ごくらく)見(み)て地(ぢ)ごく」・「浦里」
 初代坂東しうか(初代坂東しうか)、(MFA:初代坂東しうか)

「夢(ゆめ)はさかゆめ」・「清玄尼」
 三代目岩井粂三郎(欠落)、(MFA:三代目岩井粂三郎)

「めくら蛇(へび)におぢず」・「悪七兵衛景清」
 四代目中村歌右衛門(欠落)、(MFA:四代目中村歌右衛門)

「身(み)を捨(すて)てこそ浮(うか)む瀬(せ)」・「佐々木源之助」
 五代目沢村長十郎(欠落)、(MFA:五代目沢村長十郎)

「しらぬがほとけ」・「浮世伊之助」
 八代目市川団十郎(欠落)、(MFA:八代目市川団十郎)

「ゑんはいなもの」・「萩の屋八重桐」
 三代目嵐璃寛(欠落)、(MFA:三代目嵐璃寛)

「びんぼうひまなし」・「猿廻し與次郎」
 二代目市川九蔵(欠落)、(MFA:二代目市川九蔵)

「もつたがやまひ」・「足利光氏」
 三代目岩井粂三郎(欠落)、(MFA:三代目岩井粂三郎)

「背(せ)にはらはかへられぬ」・「美人お松」
 初代坂東しうか(欠落)、(MFA:初代坂東しうか)

「すいがみをくふ」・「藤屋伊左エ門」
 五代目沢村長十郎(欠落)、(MFA:五代目沢村長十郎)

「京かの子に江戸むらさき[5]」・「花川戸助六」
 八代目市川団十郎(欠落)、(MFA:八代目市川団十郎) 

この「教訓いろはたとゑ」については、かつて諺研究者の時田昌瑞が『いろはカルタの文化史』[6]で、二十二点を紹介した。その際に時田は、これをいろはカルタの図像を応用、翻案したものと根拠なく考えて紹介した。時田は、古書市でたまたま見かけた残欠を購入してそれだけで判断をしてこう考えたのであり、史料環境が恵まれていなかったとはいえ軽率な判断であった。後になって、本格的な史料の所在確認が進んでからそれを活用して考えれば、このシリーズは毎月の歌舞伎興行での人気役者の役者絵であり、そこに、気の利いた「譬え」の文句をかるた札風にデザインして描き加えた物で、当初からいろは譬えかるたを描いたものではないし、従って、いろは順に発行したものではないし、いろは四十七枚に「京」ヲ加えて四十八枚のシリーズに完成させる意図もなく、毎月三枚・一組、合計で二十組・六十枚以上も発行されたものであることは明白であった。ところがその段階で、史料の所在を教わった同志社女子大学の吉海直人が四十八枚を「翻刻」して紹介した。原史料は早稲田大学演劇研究所や国会図書館のホームページで容易に閲覧できるのであるから、「翻刻」することには、新史料の初出という価値は認められず、江戸時代の文字遣いを現代人に理解できるように正確に「翻刻」したという価値しかないのであるが、肝心のその「翻刻」[7]が、原文字が読めなくていい加減で、原史料にある振り仮名は九十六文字分を欠落させており、「なまころし」が「なまごろし」、「ねんをつかへ」が「ねんをつがえ」、「無利」が「無理」、「三へん」が「三べん」、「身を捨て」が「身を捨てて」、「すいが身をくふ」が「すいは身をくふ」など軽率な誤りが多い。歌舞伎芝居での役名「在原屋業平」が「在原業平」になっているのはもはや単純に可笑しい。時田は二十二点という不十分な史料で早計に判断したのであり、軽率ではあるが弁解の余地はある。一方吉海は、五十二枚を見ている。そうだとすると、吉海は時田の誤診に気付くことができたはずであるが、当時時田を崇拝していた吉海は、自分なりの自主的な再検討の気配も見せず、時田を褒め讃えてその判断に追従して、誤診を引き継いだうえで、自分の方が研究を深めて時田を越えたと言わんばかりに誤謬の範囲を大きく拡大したのである。先人をほめている振りで実は自分の方が研究が深いとマウンティングする。よくある話ではあるが、大学教員のあり方として物悲しい話である。

二つ目に取り上げたい史料は、安政四年(1857)に、人物は三代豊国が描き、弟子の二代歌川国久が器財を描いて江戸日本橋の版元「團仙堂」から出版された「いろはたとへ辻占かるた」(その1、その2、その3)[8]である。これを見ると、字札は「いきをひがよい(勢いがよい)」、「ろんなく大よし(論なく大吉)」、「はなしがあるよ(話があるよ)」、「にくらしい(憎らしい)」、「ほどがよい(程が良い)」などの辻占の文句であり、絵札は句意に関連する歌舞伎の役の名前と豊国の描く役者の似顔絵である。そして、字札に、この役に関連して国久が描いた器財の絵が添えられている。たとえば「い」の絵札は「双蝶々曲輪日記(ふたつちようちようくるわにつき)」の「ぬれ髪長五郎」で、字札の「いきをひがよい」には喫煙の道具が添えてある。「は」の絵札は「網模様灯篭菊桐(あみもようとうろうのきくきり)」の「御しゅでんお熊」で、字札の「はなしがあるよ」には膳の上の酒肴が添えてある。「り」の字札には「りんきはおよし(悋気はおよし)」の文句と祝いの酒樽があり、絵札は「関取二代勝負付(せきとりにだいのしようぶづけ)」の「秋津嶋女房(おせん)」である。

いろはたとゑ辻占かるた③
(三代豊国画、團仙堂版)
いろはたとゑ辻占かるた②
(三代豊国画、團仙堂版)
いろはたとゑ辻占かるた①
(三代豊国画、團仙堂版)

こうした「役者絵かるた」は木版とはいえ美麗な仕上がりであり、毛氈や畳の上に散らしたものを叩いて取る遊技に用いるよりも、芸術作品として見て鑑賞し、贔屓の役者のものを集めたり贈り合ったりして楽しむことに適している。

さらに、「役者絵かるた」は上方でも流行した。例えば京都にある上方歌舞伎の劇場、南座のすぐ右隣りにある絵草紙屋の「紙藤」は、南座の芝居の観客を顧客と考えたのか、何種類かの「役者絵かるた」を売り出している[9]。明治十年代(1877~86)後半期の「大新板やくしや顔にせいろはたとゑ」(その1、その2)[10]は、豊国の「教訓いろはたとゑ」と同じく字札は譬えであり、絵札は画工不詳の役者絵で、そこに役名と役者の名前がある。たとえば、「い」は「いしのうへにも三ねん(石の上にも三年)」で「てる手姫」「右團次」であり、「ろ」は「ろんよりしようこ(論より証拠)」で「細川かつ元」「駒之助」であり、「は」は「はぢをいはねばりがきこへぬ(恥を言わねば理が聞えぬ)」で「早野勘平」「璃寛」である。また「し」は「しんあればとくあり(信あれば徳あり)」「百度平(ひやくどひら)」「八百蔵」であるので、この演目の初演、明治十六年(1883)以降のものと判断される。これも詳細を紹介しておこう。

大新板やくしや顔にせいろはたとゑ② (紙藤版)
大新板やくしや顔にせいろはたとゑ① (紙藤版)

 

「大新板やくしや顔にせいろはたとゑ」
(画工不明、紙藤版、明治十年代)

「いしのうへにも三ねん(石の上にも三年)」       てる手姫・右團次

「ろんよりしようこ(論より証拠)」           細川かつ元・駒之助

「はぢをいはねばりがきこへぬ(恥を言わねば理がきこえぬ)」早野勘平・璃寛

「にくまれこよにはびこる(憎まれ子世にはびこる)」   瀧口上野・市十郎

「ほとけのかほもさんど(仏の顔も三度)」        ……………

「へこいてしりすぼめる(屁をこいて尻すぼめる)」    山口九郎次郎・琥珀郎

「とふはとうざのはぢ(問うは当座の恥)」        誉田内記・璃笑

「ちでちをあらふ(血で血を洗う)」           宗任・荒五郎

「りちぎものゝこたくさん(律義者の子沢山)」      惣五郎・橘三郎

「ぬかにくぎ(糠に釘)」                九十郎・鰕太郎

「るいをもつてあつまる(類をもって集まる)」      鴈文七・延若

「をふたときかさぬげ(負うた時笠脱げ)」        中野藤兵へ・八百蔵

「わかいときのしんどはかふてせい(若い時のしんどは買うてせい)」堀部安兵へ・寿三郎

「かわいこにはたびをさせ(可愛い子には旅をさせ)」   おきよ・正朝

「よひなかにかき(良い仲に垣)」            粉や孫右エ門・鰕十郎

「たでくふむしもすきずき(蓼食う虫も好きずき)」    おはん・みんし

「れんきではらきる(連木で腹切る)」          善六・美寛

「そでふりあふもたしやうのゑん(袖振合うも他生の縁)」 おふね・團之助

「つへのしたからもまはすこはかあい(杖の下からも廻す子は可愛)」 慈非蔵・仙昇

「ねんにはねんをいれ(念には念を入れ)」        盛綱・雀右エ門

「なくこもめあけ(泣く子も目明け)」          狩野四郎次郎・福助

「らくあればくあり(楽あれば苦あり)」         おさん・松太郎

「むまのみゝにかぜ(馬の耳に風)」           徳兵へ・延三郎

「うりのつるにはなすびがならぬ(瓜の蔓には茄子が生らぬ)」力弥・鴈次郎

「ゐぬもあるけばぼうにあたる(犬も歩けば棒に当る)」  定九郎・市十郎

「のりかゝつたふね(乗りかかった舟)」         渡し守頓兵へ・荒五郎

「おいてはこにしたがへ(老いては子に従え)」      平作・鰕十郎

「くはいろかへる(苦は色変える)」           お染・右團次

「やみにてつぽう(闇に鉄砲)」             勘平・福助

「まるいものにかくがつく(丸いものに角が付く)」    忠右エ門・雀右衛門

「げいはみをたすける(芸は身を助ける)」        鳥おいおとよ・正朝

「ふくろ鳥[11]のよいだくみ(梟鳥の宵だくみ)」     正直正太夫・友三

「こはさんがいのくびかせ(子は三界の首枷)」      くずの葉・璃寛

「えんとつきひ(縁と月日)」              八重垣姫・璃幸

「てらからさとへ(寺から里へ)」            蓮生坊・芝翫

「あしもとからとりがたつ(足下から鳥が立つ)」     宿弥太郎・三五郎

「さるもきからおちる(猿も木から落ちる)」       五右エ門・多見蔵

「きちがいもひとりくるはぬ(気違も一人狂わぬ)」    わん久・璃笑

「ゆみもひきかた(弓も引き方)」            北野や七兵へ・珊瑚郎

「めのうへのこぶ(目の上の瘤)」            山家や清兵へ・大吉

「みからでたさび(身から出た錆)」           伊左エ門・壽三郎

「しんあればとくあり(信あれば徳あり)」        百度平・八百蔵

「ゑてにほうあげる(得手に帆上げる)」         桑名や徳蔵・梅朝

「ひんすればとんする(貧すれば鈍する)」        水次郎・駒之助

「もちはもちや(餅は餅屋)」              ……………

「せいみちによつてかしこし(性道によって賢し)」    真柴久吉・橘三郎

「すいがみをくふ(粋が身を食う)」           きられ与三・延若

「京にいなかあり(京に田舎あり)」           小原女・和哥太夫

 

 

この「大新板やくしや顔にせいろはたとゑ」についても、かつて新出史料の紹介だとした吉海の「翻刻」[12]があるが、上方歌舞伎に不勉強過ぎて、また、日本文学史の専門家とは思えないような大量の誤読がある。表題からして「大新板」が「大新版」と誤読し、譬えでは「れん木ではらきる」を「れん木ではばきる」、「うりのつるにはなすびがならぬ」を「うりのつるになすびはならぬ」であり、役柄名でも「細川かつ元」を「細川かつ充」、「善六」を「差六」、「宿弥太郎」を「富弥太郎」、「桑名や徳蔵」を「幸名や徳三」と意味不明の誤読を続発させている。役者名ではもっと悲惨で、人気役者の「右團次」が読めなくて「右兵衛次」に化け、「璃寛」「璃笑」「璃幸」の一門は全滅で「瑠寛」「瑠笑」「瑠幸」であり、「荒五郎」は「荒又郎」、「橘三郎」は「橋三郎」、「團之助」は「雲之助」という聞いたこともない役者名になっている。これだけ読めなければ当然のことであるが、「鰕太郎(えびたろう)」、「鰕十郎(えびじゅうろう)」が読めなくて「雛太郎(ひなたろう)」、「雛十郎(ひなじゅうろう)」である。これでは鰕十郎が演じる舞台だというのに客席からの掛け声が「えび十郎!」ならぬ「ひな十郎!」になってしまい、締まらないこと夥しかろう。こうした初歩的な誤りがわずか四十八組のかるたの紹介で二十四箇所もあってはとても研究者の書いた業績とは認められないので、「論文」ではなく「文章」とした。あるいは吉海が学生に代筆させて自分の名前で発表したのではないかと思わせるようなものである。

なお、吉海は、幕末期の慶応三年(1867)に江戸で、芝神明前の版元増田屋(ましだや)が、江戸の芝居小屋に掛る歌舞伎芝居の役者絵を上演に応じて次々に速報した豊原国周(とよはらくにちか)画(一部は落合芳幾(おちあいよしいく)画)の役者絵のシリーズ「俳ゆういろはたとへ」[13]を、そこにカルタ札風に描いた譬えの挿絵が加えられていたのでいろはかるた関連の史料と即断して、新出史料として紹介している[14]。たまたま早稲田大学演劇博物館のデジタル情報開示のページでこの出版物のシリーズでは五十二枚が所蔵されていることを知ると、自己の研究の成果のように「ようやく五十二枚揃いであることが判明した」と誇らしげに書いている。だが、演劇博物館は五十二枚の現存を確認したがそれが揃いとも完結しているとも述べていない。またこの芝居絵シリーズは、芝居小屋で上演される演目ごとに毎月の様にばらばらに刊行されている。中村芝翫の白井権八は異版が重複しているのだから、揃いだというなら五十一枚揃いでありえても五十二枚揃いだけはありえない。さらに、このシリーズでは同じ彫工を使って三枚組(二枚組もあるか)で出版されていて演劇研究所のコレクションには欠けが多いので、それを補って考えてみると総計で六十枚以上のものと推定される。十枚以上の役者絵が欠けており、五十三枚目以降の作例が出現する可能性も大いにある。これがなぜ「五十二枚揃い」と「ようやく判明」したのかまったく不可解である。

そしてこの紹介文章でも、わずか五十二枚の役者絵の紹介に七十か所以上の誤りがある。原史料にはないのに同人が附加した役者名にも表記の誤りが多く、それを加えれば百二十か所以上である。

俳ゆういろはたとへ(左より:げいしやおしず、義神おまつ、妲己お百)

いくつかの例を示せば、役柄名では「けいしやおしず」という記述が単に「げいしや」、「義神おまつ」が単に「おまつ」、「萩野屋八重ぎり」が「荻野や八重ぎり」、「妲己お百」が単なる「お国」「白ふし源太」が姓を失って単なる「源太」、「千崎弥五郎」が「崎弥五郎」などである。また、演劇博物館が苦労して研究して、役者絵上では記載がない当時その役を演じた役者名をすべて特定してデジタル情報として開示しているが、それを「早稲田大学演劇博物館調べ」という典拠を表示しないで、自分の研究成果であるかのように「わかる範囲でそういった情報も記しておく」として、多少間引きしながら転載している。そこで「妲己お百」が読めなくて単に「お国」と誤読したのに役者名は当時「妲己のお百」を演じた四代目市村家橘が正しく挙げられるという奇妙な事態が生じる。「お国」と誤読した者が、どう研究すれば「妲己のお百」を演じた役者名に正しくたどり着くのか。「お国」という正体不明の役名から四代目市川家橘にたどり着くことは不可能である。不可解な事態の説明責任は同人にある。

この「俳ゆういろはたとへ」は幕末期の「譬え」の応用作例であっても「いろは譬え」の「かるた」ではない。「譬え」文化史の史料であっても「譬えかるた」史の史料ではない。したがって、この報告にとってはこの役者絵は検討の射程距離外のものとなるので言及する必要はないのであるが、上に扱った「大新板やくしや顔にせいろはたとゑ」や「教訓いろはたとゑ」に関する吉海の紹介文章の誤りがほかにも繰り返されていて事態は刻であることを示すために視野に入れている。

私は、『遊戯史研究』第二十八号において、「『俳ゆういろはたとへ』『大新板やくしや顔にせいろはたとゑ』」『教訓いろはたとゑ』の翻刻に関する研究」を表し、その中で、吉海が同大学の紀要『同志社女子大学学術研究年報』誌上及び新典社で刊行された同社の選書33『「いろはかるた」の世界』で展開した「翻刻」と解説を批判した。そして、同号の刊行後に、その旨を同大学及び同出版社に通知し、善処方を求めた。同大学からは、相も変らぬ仲間庇いで返答がなかったが、新典社からは早速に社長の岡元学実氏より「俳ゆういろはたとへ」に関連して返答を得た。それは要するに研究者間の学説上の争いに関して出版社は介入しないという趣旨のものである。それは、出版社としては誠実な対応であると思う。吉海が犯した誤解、誤読、誤記という指摘を学説上の争いとすることには異論があるが、そのことをここで取り上げたり、あれこれ論評したりするつもりはない。

俳ゆういろはたとへ表紙(後付け)(作者不詳)

ここで取り上げたいのは、その返答の追伸で岡元氏が説明したことである。すなわち、岡元氏はここでこの出版物の表題について次のように述べた。

追伸
玉稿二八頁上段、「表題」につきまして、
・「吉海」の作文であり、原画にはこういう欄外の表題はない。
・「吉海」はこの他の表記による表題多数(上掲)を欠落。
・「吉海」は「国周筆」とするが、「芳幾画」もあることを欠落。
・「吉海」は「五十二枚揃」とするが誤り。
と指摘されていらっしゃいますが、吉海先生は表題の題簽(別紙)にご説明をされており、江橋先生は全く別の箇所に拠りまして、ご指摘を加えられているように拝察いたしましたので、念のため、ご報告を申し上げます。

この反論には早稲田大学演劇博物館のデジタル公開史料から採った、「俳ゆういろはたとへ」シリーズの表紙をプリントアウトしたものの白黒コピー図像が添付されている。

ここで岡元氏が吉海に代わって反論しているのは、要するに、吉海は同博物館のデジタル公開史料で「俳ゆういろはたとへ」の表紙をきちんと見たうえで論文を書いているのであり、題簽の記載の内容からして妥当であり、江橋の批判は当たっていないということである。

 

この反論に対して、私は次のように返事をした(今回の転載では単純な誤植は直した)。

 なお、ご返事の追伸で、「俳ゆういろはたとへ」の表題についてご説明を頂きました。ただ、そこでお示しいただいた画像は、早稲田大学演劇博物館が所蔵する五十二枚組の芝居絵に添えられていたもの(同博物館の整理番号は500-2400番)ですが、元来の版元である増田屋がその製品に付けて一括して出版、販売したものではなさそうです。「俳ゆういろはたとへ」は、私が申し上げているように、慶応三年前後に毎月出版したシリーズものの芝居絵でして、五十二枚ではなく六十枚以上が出版されています。そして、画像でお示しいただいた添え物は、このシリーズを購入した歌舞伎芝居の愛好者が大事にしていて制作したのか、あるいは後世に、これを譲り受けた者か販売を試みた古書店が保存のために制作したものではないでしょうか。なお、念のために申し上げておきますが、この種の題簽が出現した場合、それが木版の刷り物であれば版元が商品としてある程度の量をまとめて売り出すときに制作したものと判断し、墨書であれば購入者ないし後世の業者が手中にある一点のために特別に誂え、あるいは自身で制作したものと判断することが多くございます。この題簽の場合はさらにちょっと変わった字配りにも興味がありました。

 そうだとすると、なぜ「五十二枚不揃い」であることが明らかなものを「五十二枚揃」としたのか、「揃」であれば古美術品の商品価値が上がることを見越した業者の細工物かとも思えますが、私には明確な根拠をもって判断することはできません。ただ、この不可思議な添え物を根拠にして画工は国周だけであり、五十二枚が「揃い」であると判断したのだとすると、吉海教授の史料批判の甘さには改めて驚くばかりです。私は、後世に制作されたと思われるこの添え物に関する判断を保留して、それに言及することもせずに、あくまでも、増田屋から出版された慶応三年の芝居絵五十二枚そのものをきちんと見ていない吉海教授を批判し、私自身はそこに記載されているところに依って記述しています。

 念のために書けば、この芝居絵シリーズの演劇博物館における整理番号は500-2401から500-2452までです。ご返事では私が「全く別の箇所に拠りまして、ご指摘を加えられているように拝察いたしましたので」とお書きですが、このご指摘は全くの誤りでして、「全く別の箇所」ではなく、まさにこのシリーズそのものに拠って指摘しています。岡元様も、せっかく500-2400をご覧になったのであれば、そんな入口みたいなところで作業を止めないで、それに続く500-2401以降の芝居絵も鑑賞してくださればよかったのにと残念に思っています。

 そして、私の記述が不十分でご理解いただけていないのかと思いますが、このシリーズの芝居絵には、画面上には表題が書かれていますが、欄外というか、枠外というか、そこには表題の記述はありません。かるた絵では、欄外に表題が書かれるのですが、この芝居絵ではそうなっていないということです。そして、画面上の表題に様々な変化があることと、そこからほの見えるシリーズの制作事情についてはすでに指摘したところです。これも、五十二枚の実物を見れば一目で明らかな事実ですし、そもそも芝居絵には、かるた絵と違って、欄外の表題はないものです。芝居絵の画面上の表題と別に全体を通しても統一感のある表題があるという吉海教授のご指摘には全く根拠がありません。

 もう一点私が申し上げたのは、早稲田大学演劇博物館のデータを使ったのであれば、その旨を明示するのが研究者の基本ルールだということです。吉海教授からどのような説明をお受けになっていたのかは存じませんが、典拠を示さずに読者が著者の研究成果と誤解するようなやり方で自著の中で表記すれば、これを世間では盗用、剽窃と呼んでおります。そして、その責任が著者にあるのは当然ですが、出版社にも相応の処置が求められるところではないでしょうか。私としては、吉海教授が、所属大学の紀要においても、その後に貴社から出版された一般書においても、その旨を明示していないことが大変に気になっているところです。

ここでこのやり取りを紹介する主たる目的は、私が『遊戯史研究』誌上の論考で触れなかった「俳ゆういろはたとへ」の表紙なるものについて、岡元氏が検討の素材として提出したので、そこに、この問題の検討を一歩前進させる意味があると思い、更に検討を深めてその結果を学界で共有しようとする点にある。

私は、演劇博物館のデジタル公開史料の中にこれがあることは以前から知っていたが、芝居絵の出版時期である慶應三年(1867)のものであるかは疑わしく、後世、明治年間(1868~1912)か大正年間(1912~1926)に制作された添え物であると判断して無視して特に触れることはしていなかった。それを岡元氏が、お前はこれを見てもいないで吉海を非難しただろうと批判するので、可笑しい話しだと思った。

この表紙の位置づけについては岡元氏への返信で扱ったので繰り返さないが、「この題簽の場合はさらにちょっと変わった字配りにも興味がありました。」と書いた部分については若干補足しておこう。

この種の史料を見るとき、普通、研究者であれば、まずそれが手書きであるか木版印刷であるかを見る。木版画のシリーズをまとめて「組」「揃い」として商品化するときには、その包装紙や表紙の題簽も木版のものを用いる。私はこの演劇博物館の整理番号500-2400番の史料は手書きなので後世の添え物と判断した。次に、各々の文字を見ると、この題簽では、「國周筆」の部分が、「俳ゆういろはたとへ」「五十二枚揃」の部分と、墨色が違い、書体が違い、書かれている場所が奇妙で、題簽にあとから書き加えられたものであることが一目で明らかである。試みに「國周筆」の部分を指で隠してこの題簽を見れば、「俳ゆういろはたとへ」「五十二枚揃」はバランスがうまく取れた、題簽らしい美しい書であることが分かる。「國周筆」は明らかに後からの闖入者なのである。でも、まさか岡元氏に、こんな違いも分らないのかと書いては失礼にすぎるので、ぼやかした表現になった。おかしなことに、元々は吉海発であろう添付の図像は白黒の縮小画面であり、「国周筆」の異様さ、とくに墨色の違いは素人目には分かりにくい。私は、以前から、ほぼ原寸大のカラー図版でプリントアウトして活用していたので誤解しないで済んだのであるが、白黒の見えにくい縮小画像を使って反論するとは吉海もなかなかだと感心した。

俳ゆういろはたとへ(左より:芳幾画、芳幾画、國周画)

もう一つ細かいことを書くが、この題簽では「國周筆」とされている。それをそのまま引用した吉海も「国周筆」である。それに対して私は「芳幾筆」もあると指摘した。数枚の画面にそう書いてあるのに、吉海は、図像をきちんと見ていないのか、「芳幾」が画工の名前であることが理解できなかったのか。これなども、版画浮世絵の解説書を学べば避けられたミスであるので残念である。

こういう次第で、新典社の岡元学実氏の反論は、新たに史料を提出したことはよかったのだが、残念だが指摘は的を射ていない。ただ、これを機会に、いろはかるた史研究においてもう一つ共有の史料が増えたことを喜ばしいと思う。私は、今後の遊技史研究は、希少な史料であればデジタル公開して、研究する者が平等に利用可能な状態にすることが大事だと考えている。今回、岡元氏の指摘をきっかけにこの史料について私からも公開し、議論できたことは幸いである。

 


[1] 国立国会図書館デジタル公表資料。

[2] 字札は「お」で絵札は「を」。

[3] 字札は「い」、絵札は「ゐ」。

[4] 「手」に振り仮名なし。「て」という仮名扱いか。

[5] 「京」「江戸」に振り仮名なし。

[6] 時田昌瑞『いろはカルタの文化史』生活者新書、NHK出版、平成十六年、一〇一頁。

[7] 吉海直人、同前、六八頁。

[8] 国立国会図書館デジタル公表資料。中町泰子『辻占の文化史』ミネルヴァ書房、平成二十七年、八五頁。

[9] 鈴木俊幸「京都の絵草紙屋紙藤(綾喜)―引札と紙看板―」『書物学』第5巻、勉誠出版、平成二十七年、三二頁。

[10] 二枚組の木版刷り、前半部の表題による。後半部の表題は「大新板やくしや顔似せいろはたとゑ」である。戸板康二「「いろはかるたの楽しみ」『別冊太陽いろはかるた』平凡社、昭和四十九年、九六頁。森田誠吾、「いろはかるたの流れ」『歌留多』、平凡社、昭和五十九年、二二八頁。なおこれは「山田徳兵衛氏蔵」(現在は𠮷徳資料室蔵)のものである。

[11] ここの「鳥」のみ漢字を使用。

[12] 吉海直人「『いろはかるた』資料六種の紹介(補遺)」同志社女子大学学術研究年報第六四巻、同大学教育・研究推進センター、平成二十五年、七〇頁。

[13] 早稲田大学坪内逍遥記念演劇博物館デジタル公表資料。

[14] 吉海直人「『いろはかるた』資料六種の紹介」同志社女子大学学術研究年報第六〇巻、同大学教育・研究推進センター、平成二十一年、九頁。同、『「いろはかるた」の世界』(新典社選書第三三号)、新典社、平成二十二年、五八頁。