清水晴風「花加留多考」
清水晴風「花加留多考」

この、大平与文次の記事は、発表当時からほとんど注目されることなく埋もれてしまっていた。そこに登場して、花札の歴史認識に決定的な影響を与えたのが、明治三十八年に骨董好きの集団「集古會」の機関誌『集古會誌』乙巳巻之三第四号に掲載された、清水晴風の論文「花加留多考」である。私は、これについても『ものと人間の文化史167 花札』で検討しているので、ここでは簡略に再録する。

この論文で清水は、まずは日本におけるカルタの歴史を検討し、次いで「花鳥合せカルタ」に次のように言及した。

「予の蔵品に安永頃行はれし花鳥合せと題する加留多あり、總數二百餘枚四枚を一種とし五十餘種あり、各札點數を記し多きは十萬點少きは百點一種四枚の中一枚高點にして他三枚は同點なり、其種類を擧くれは、芥子、燕子花、藤、柳、カラ松、梅、松、薄、芦、藻、夏草、根笹、葵、蒲、水仙、もち花、岩に竹、螢草、鐡せん、さゞん花、松に富士、福壽草、河骨、桃、紫苑、葡萄、蓮華草、南天、撫子、竹、牡丹、桐、朝顔、挿花梅、紅葉、枯芦、葛かつら、春草、櫻、木賊、萩、菊、芙蓉、船に蒲、水草、忍草、枯木立、几帳、簾、〆飾、蝙蝠、岩石、干網(順不同)以上のことき草花等に鳥獣、蝙蝠には月、岩石には亀等を配し各點數を記す、圖に示す桐に鳳凰は拾萬點にして桐のみの三枚は五萬點、同しく梅のみの三枚は一萬點、梅に鶯の一枚は三萬點のことし、其包紙に花鳥合と題し總數四百六萬七百點と記しあり、枚數を記載せさるを以て明らかならされと多少の欠落あらんが今存するものは五十三種二百十二枚にして繪皆肉筆なり。

此花鳥合せといふものは未た賭博の具には使用せられさりしものにして、思ふに寛政に至りうんすうかるたの禁止せられてより此花鳥合せよりうんすうかるたの制を採り多數の中より四十八枚を抜き出て、四枚一種十二通りとなして今いふ花加留多といふものを製して代用となせしならん、圖に示すは安政頃の花加留多にして其繪古雅なり、古老に尋ぬるにめくり札を弄(もてあそ)ひしことを語れと花加留多あるを知らさるに徴しても實に此物の起りはいと近き事なるを知るへし、思うに天保年間に初りしものならん。

爰(ここ)に至り貝合より出て優美なる流れを汲みたる花鳥合も、花加留多に至りてうんすうかるたと相合し、遂に賭博の用具となり了りしなり。」

ここで清水は、①安永年間に「花鳥合せ」というカルタ遊技が流行した。②その後、寛政の改革で「うんすうかるた」(南蛮より伝来したカルタのこと)が禁止されたので、花鳥合せから四十八枚を抜き出して「花加留多」を考え出した。③その時期は天保年間あたりであり、それ以後は賭博の用具に成り果てた、と主張した。これが、清水の主導した花札は「賭博カルタの代用品」という理解である。清水はこれに、「清水晴風蔵品をうつす」として、「うんすかるた」二枚、「安永年頃の花かるた」二枚、「安政年頃の花かるた」二枚の挿絵を添えた。「うんすかるた」の札は「コップのロハイ」と「イスの一」であり、「安永年頃の花かるた」は手描きの「桐に鳳凰(拾万点)」と「梅の花(一万点)」(枝振りは梅の主牌だが鶯がない)であり、「安政年頃の花かるた」は木版武蔵野の「松に鶴」と「菊に盞」である。

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