(四)清水晴風の理解の通説化

一方、清水晴風説の影響力は極めて大きく、田口卯吉は明治四十年(1907)の『日本社會事彙』で「花鳥合は貝合の文字を繪画にせるものにて、四季の花鳥を取合せ、其数三百余枚に及び、四枚を以て一組とす。児童の教育には恰当(こうとう)の遊戯品たり。ウンスン骨牌禁止の時、上流社会の娯楽品として案出され、歌骨牌と並び行はれしなり。」、「花骨牌は実に此花鳥合を古きウンスン骨牌の方法に律せしものにて、四種十二通總數四十八枚とせしは、文政天保の間なるが如し。」とした。

   尾佐竹猛「下等百科辭典」

さらに、明治四十三年(一九一〇)の『法律新聞』六百八十七号において「雨花山人」こと尾佐竹猛は、挿画を添えた文章「下等百科辭典(十六)はながるた」で、「貝合(かひあは)せよりの系統を引(ひ)きて、花鳥合せ、虫合せ等(など)の加留多行はれしものにて、清水(しみづ)晴風所蔵の安永頃(あんえいころ)の花鳥合(とりあは)せと云へるものは、總數二百四枚各札點数(てんすう)を記し、多(おほ)きは十萬點少きは百點のものあり。芥子(けし)、燕子花、藤、柳等五十種の草花(くさばな)に蝙蝠、亀等の鳥獣(てうじゆ)を配(はい)したる美麗なるものにて、未だ賭博には用(もち)ひられざりしものヽ如し。然(しか)るに一方(ぽう)には、ウンスン加留多の弊甚だしきを以て寛政(くわんせい)三年に嚴禁(げんきん)せられしに依(よ)り、遂に此花加留多にウンスン加留多(かるた)の制を採り四十八枚(まい)となし、以て現今の花骨牌(はなかるた)となりしものヽ如(ごと)く、ウンスン加留多は變(へん)じて現今のメクリ札となりしものの如(ごと)く、其何時頃より現今(げんこん)の花骨牌(かるた)の制となりしものなるに付(つい)ては明確ならざれども、徳川禁令考(とくがはきんれいかう)にも其(その)記載(きさい)なく、又市中臨時廻の取調(とりしらべ)べたる博奕(ばくえき)仕方にもメクリ札はあれども花骨牌のみ記載無く、安政(あんせい)頃にも未(いま)だ行(おこな)はれざるものヽ如く、天保の頃よりとの説(せつ)もあるが要(えう)するに夫れ以前(いぜん)のもので無(な)い様である。」としてこの清水説に従った。なお、尾佐竹がここで示した図像は、清水の論文の附図の丸写しである。つまり、花鳥合せの現物は、清水蔵のものしかなかったということになる。花鳥合せ進化説の史料的根拠は誠にか細い。

尾佐竹に関してさらに言うと、尾佐竹が清水を訪ねてこれらのかるたを実見したうえで模写をしたのかも怪しい。尾佐竹は、松の札の月の部分など、清水の原図に欠けている部分までも描写しているのであるから、かるたの実物を見て描いたように見えるが、清水論文を見て図像を模写し、その際に欠落している部分は自分で適当に想像して補ったのであって、実際には史料を見ていないという疑いが残る。

というのは、尾佐竹は、清水蔵の花鳥合せは、「芥子、燕子花、藤、柳等五十種の草花に蝙蝠、亀等の鳥獣を配したる美麗なるもの」としているが、清水本人は、「蝙蝠」は、「几帳」「簾」「〆飾」「岩石」「干網」と並ぶ現存五十三種類の紋標のうちの一つであって四枚あり、一方「亀」は、「岩石には亀」とあるように「岩石に竹」紋標の高点札に配された意匠であるとしている。尾佐竹が清水蔵のかるたを実際に見ていれば、花鳥合せかるたの紋標は「五十種の草花」ではなく、五十三種の紋標中には、「柳」「カラ松」「松」「藻」「夏草」「根笹」「岩に竹」「松に富士」「竹」「枯芦」「船に蒲」「枯木立」「蝙蝠」「几帳」「簾」「〆飾」「岩石」「干網」等三分の一に達する「草花でない」紋標があることに気付いたであろうし、四枚ある蝙蝠の札と、「岩石に竹」の紋標の札の中に一枚しかない亀の札を同列に並べて書くような軽率なミスを犯すこともなかったであろうし、と思われるのである。

それはさておき、ここに清水説は広く通用する通説となり、その後、大正年間(1912~26)の宮武外骨、昭和前期(1926~45)の山口吉郎兵衛と権威者が追随し、昭和後期(1945~89)にまで君臨した。そして昭和四十、五十年代(1965~84)に、当時、賭博系カルタの蒐集と研究の第一人者であった村井省三が新出の史料も添えて補強して積極的にこの説を主張した。そのために、今日でも、多くの者がこの神話を信じている。