中国文化の影響を強く受けている日本では、それにかかわる独特のかるたが江戸時代初期から考案されてきた。なかでも漢詩のかるたは、第一句、第二句を一枚のカードに書き、第三句、第四句をもう一枚のカードに書き、両者を合せ取る遊技として早くから成立した。これを明らかにした功績者は山口吉郎兵衛である。『うんすんかるた』は数点の実例を示して「詩かるた」を明らかにした。江戸時代前期の寛文十一年(1671)挙行の「新院、道晃御両吟千句」(新院は後西上皇、道晃は前聖護院門跡法親王)に「まくに猶わかぬは唐のうたあはせ 晃」とあり、江戸時代中期の「人倫訓蒙図彙」に、天正カルタに次いで「又歌かるた、詩かるたあり」と記してあるのである[1]。私は現代の一般的な呼称に従って「漢詩かるた」と表記しているが、正確に言えば、江戸時代前期の「中国詩かるた」では漢、唐、宋、元、明の各時代の詩文が採用されているのであり、「漢詩かるた」よりも「宋詩かるた」や「明詩かるた」の方が盛んであったと思われる。この種のかるたの総称は「詩かるた」で良い。ただ、残されているのは文献史料だけで、かるたそのものの具体的な史料に欠けるのが残念である。

桑名版漢詩かるた(制作者不明、幕末期)
桑名版漢詩かるた(制作者不明、幕末期)

こうした中で、江戸時代中期(1704~89)後半から後期(1789~1854)になると、唐詩を扱ったものが圧倒的に増大した。その背景にあるのは、江戸時代中期の漢学者荻生徂徠が、中国では評判の芳しくなかった『唐詩選』を高く評価し、その弟子の服部南郭が校訂を加えた解説書を表して嵩山堂から出版し、それが広く普及するベストセラーになり、漢詩といえば『唐詩選』であるという日本社会だけに独特の評判が生まれたことである。これが百人一首等の王朝文化の和歌集を、男女の恋愛関係に及ぶ内容が色濃いので封建社会のモラルとして問題視する男性優位主義の封建秩序維持者たちによって高く評価され、歌合せかるたは女子向けの遊技具であり、女子と席を同じくするべきではない男子は、漢詩かるた、具体的には「唐詩選かるた」を用いるべしという道徳の観念が生まれた。その先頭に立ったのが白河藩の松平定信であり、それに影響されて近隣の会津藩や、西日本の薩摩藩、土佐藩、長州藩、熊本藩などの雄藩が続いた。白河の松平藩は、寒冷な気候を嫌った定信の意を受けて桑名に移封されたので、漢詩かるたを愛好する文化もこの地方に移され、桑名藩が本家とされるようになり、実際に、近代社会でこのかるたが衰退した中で、桑名市では今日までその伝統を維持して、漢詩かるたが遊ばれている。

江戸時代後期(1789~1854)の「唐詩選かるた」の遺品は多数残されている。山口も『うんすんかるた』では、いずれも天保年間(1830~44)のものとされているが、「版彫唐詩選詩カルタ」五十対一組と、手書きの「唐詩選詩カルタ」七十五対一組の「質素な実用品」を紹介しているほか、大正十年(1921)に江馬務が主宰する「風俗研究会」の『昼夜帯』第二号に紹介された井出熊次郎蔵の絵入の唐詩選かるた「唐詩選の五言絶句の詩を七十二首選んで、一二句には文人画の之に因んだ図柄を描き、三四句は文字ばかりのもので、書風は真書で中々よく、版本である。嵩山堂から梓行したことは中の包紙の意匠で明である。」[2]を引用して紹介している。この説明に添えて、次の二対のカードが例示されている。

上句 長干行   崔顥 君家住何處 妾住在横塘 楊柳遊船の絵

下句          停船暫借間 或恐是同郷

上句 尋隠者不遇 賈島 松下問童子 言師採薬去 松樹下童子と人物の絵

下句          只在此山中 雲深不知處 

なお、この「絵入唐詩選かるた」については、山口が井出から譲り受けたのか別途に入手したのか、『うんすんかるた』に「絵入詩カルタ 五言絶句」と題して、上句札七枚、下句札一枚、計八枚のカードの写真が掲載されている。

山口は、さらに、中国関係で和歌でも詩でもなく文字を書いたかるたを発見しており、これを「文字札」と呼んでいる。『うんすんかるた』には、寛政年間(1789~1801)頃の五百対・一千枚の「千字文カルタ」と、天保年間(1830~44)の二百九十八対・五百九十六枚の「蒙求標題カルタ」が紹介されている。いずれも装飾のない実用品である。

以上の中国関連のかるたは、山口の理解では歌かるたに属するものであるが、これと別に、「絵合カルタ」の一種として「蒙求絵入カルタ」五十対百枚のものを紹介している。これは、「蒙求四言四字とその意を顕した人物画を描いた出札に、それに続く四言と人物を描いた地札を合せるので、たとえば『孔明臥竜』の文字と孔明読書の絵の裏に『呂望非熊』の四字が書いてあり、それに合う札には『呂望非熊』の四字と太公望釣魚の絵が描かれ、この札の裏には何も書いてない」[3]ものである。このかるたは文化、文政年間(1804~30)のものと考えられているが、出札と地札の双方に人物画があり、それを合せる点が江戸時代初期の「絵合せかるた」の構成を踏襲しているので「絵合かるた」に含めたのであろう。

山口はこの他に、中国の名所の風景を詠んだ和歌のかるたや、中国の英雄を取り上げた「唐武者絵合せカルタ」を紹介している。これにより、江戸時代の日本社会に及ぼした中国文化の影響の強さがよく分る。そして、山口以後のかるた史の研究者は、こうした山口の史料蒐集と研究の努力に敬意をこめて接し、漢詩かるたに関する理解は平穏に継承されていた。


[1] 山口吉郎兵衛、『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一二〇頁。

[2] 山口吉郎兵衛、『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一五二頁。

[3] 山口吉郎兵衛、『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、一四〇頁。

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