「小野小町物合歌」
「小野小町物合歌」

「古今の札」については、しかし思いがけない進展があった。私は、平成十年代(1998~2007)になって、東京の古書店で、江戸時代初期の『小野小町物合歌』[1]と題する貼り込み帖を発見した。「小野小町物合歌」は在原業平と小野小町が問答歌を交わしたという架空のフィクションの歌集であり、業平と小町という有名人のことゆえ江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)にとても人気があって筆写された冊子も多い[2]。そしてこの貼り込み帖は、三十二首の和歌の各々につき、「〇〇と」と「□□とは」という問いを書いた二枚の短冊型の小紙片と、それに応答する和歌の全句が書かれた一枚の小さめの色紙のセットで構成されている。小紙片は縦八・三センチ、横二・八センチでさまざまな色彩のものがある。色紙は縦の長さが九・七センチ、横の幅が八・七センチ、縦横の比率が九十パーセントで、現代の色紙の縦横比率と一致する。いずれも金銀散し模様入りの美麗な料紙であり、そこに能筆で和歌が書かれていて、上流階級の家中で用いられたものと推測される。そして、たとえば、ある時在原業平が「春の朝と秋の夕とはいずれぞ」と問うたのに対して小野小町が「天の原のどかにかすむ朝より 月の身にしむ秋の夕暮」と答えたという構成では、二枚の小紙片に「春の朝と」と「秋の夕くれとは」とあり、小色紙に「天の原のどかにかすむ朝より 月の身にしむ秋の夕暮」とある。ここでは、二枚の小短冊は問答歌の問いの部分を表しているが、『当家雑記』の「古今の札」に似た構成である。二枚の小紙片には色彩を変えた料紙が使われていて、この点も記録に符合する。

私はこのかるた様の物の存在を平成十五年(2003)に京都府長岡市の「国際日本文化研究センター」のシンポジウム「百人一首の世界」で報告して検討に晒し、平成十七年(2005)に白幡洋三郎編の『百人一首万華鏡』中の論文で発表した[3]。当時はまだ発見の重要な意味が十分に理解できていなくて「貝覆」起源説を脱却しきておらず、また、「歌合せかるた」文化の中心は公家社会だとも書いた。だが、発表すると意外に反響があり、他にもこのかるた様のものと似た物があることを教えられた。つまり、「古今の札」の考案を受け継ぐ小紙片は何点か残されていたのだが、それらが「古今の札」の後継であることには気づかれていなかったということである。中村の問題提起した説の実在性が高かったことに驚いたが、これの発見で「歌合せかるた」の歴史像を大きく変えることになるという喜びよりも、中村説を漫然と見過ごして史料の探査を怠っていた研究の至らなさへの反省の方が大きかった。

三十六歌仙図額
三十六歌仙図額
(狩野探幽筆、静岡浅間神社)

こうして新史料を入手して研究を進めていると、和歌を色紙二枚に分かち書きする「しうかく院」の「大きさも大かたかるたほどに、かみの色き(黄)としろ(白)にあそばされ」とした考案についても史料の発掘で進展があった。江戸時代初期、慶長、元和年間(1596~1624)から前期、延寶(以下、延宝と略記)年間(1673~81)あたりまでに各地の神社に奉納された「三十六歌仙額」の中に、上部に色違いの二枚の色紙が描かれていて、そこに一首の和歌が分かち書きされていて、その下にその和歌の作者である歌人の図像が配されているものがある。こういう様式の奉納額は寛永年間(1624~44)まで盛んに制作され、延宝年間(1673~81)頃までに下火になったが、慶長、元和、寛永年間(1596~1644)の物が相当な数で残存していて、たとえば京都の妙法院、豊国神社、大坂の住吉大社、名古屋の徳川美術館、茨城県の水戸東照宮、静岡県の静岡浅間神社などにある。また、徳川家康の没後は、各地に建立された東照宮にはその地の大名がこの歌仙額を奉納するのが通例となり、流行は全国に拡大した。こういう際には、狩野派の有名な絵師なども動員されている。

日本ではもともと色紙は和歌の表現形式であり、一枚に一首を書くのはまったく当たり前の常識であって、これを二枚の色紙に分かち書きしたのは破天荒な試みである。私は、各地でこのタイプの奉納額を見る中で、これは小型の色紙二枚に和歌を分かち書きした当時のかるたと、その歌の作者の歌人絵を一緒に表現したものであろうと考えるようになった。「上の句」の色紙と「下の句」の色紙では台紙の色が違うが、「しうかく院」が「黄地」の紙と「白地」の紙に分かち書きしたことに由来するものと思われる。奉納額の色紙の画像と「歌合せかるた」はごく近い関係にあったのである。

名古屋の徳川美術館は平成二十五年(2013)に「歌仙―王朝歌人への憧れ―」という展示会を開催し、その機会に歌人絵、歌仙絵に関する研究を進めて研究図録『歌仙―王朝歌人への憧れ―』を刊行した。歌仙に関する展示は充実しており、多くの専門家による研究論文があり、とくに江戸時代初期の「歌仙額」が詳細に研究されている画期的な企画であった。この迫力ある展示会を見て私の考えも固まったが、一首の和歌を色の違う二枚の色紙に分かち書きした慶長、元和年間(1596~1624)の新流行の特異性についてはどの解説にもどの論文にも言及がない。専門家の見解を知ることができなかったのは残念であるが、私にしても、奉納額については以前から知っていたのに、それの意味するところは平成二十年代(2008~2017)に入ってやっと思い至ったのであり、以前の考えの甘さを反省している。


[1] 「小野小町物合歌」の周辺に付き、吉海直人「新出『小野小町歌問答』二点の紹介と翻刻」『同志社女子大学日本語日本文学』第十八号、同志社女子大学日本語日本文学会、平成十八年、六三頁。

[2] たとえば梅津金忠写『業平小町とひこたひ(問い応え)の和歌』、東山文庫蔵。

[3] 江橋崇「歌留多になった小倉百人一首」『百人一首万華鏡』、思文閣出版、平成一七年、八六頁。

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