江戸の娯楽で盛んだったのが、寺社詣での旅行である。江戸で言えば、近隣の成田詣で、大山詣で、富士山詣でから、善光寺詣で、伊勢神宮詣で、出雲大社詣でなど旅行の理由には事欠かなかった。だが、旅行を主題にするかるたのカードは意外に少ない。古くは「巡禮かるた」などがあったが、その伝統は途絶えた。「東海道五十三次かるた」のカードは見かけたことがあるが、それも旅行そのものをテーマにしたのか、広重の浮世絵のヒット作品をかるたのカードに写したものなのかは分からない。一般には、旅行はかるた遊技よりも絵双六の遊技に適したテーマであったようで、そちらの出版のほうが盛んであった。ただ、江戸市内での物見遊山の行き先の選択に便利な「江戸名所歌留多」の類はいくつか出版されており、明治年間(1868~1912)になると「東京名所巡り」「東京名所四十八景」などに引き継がれて全国各地の「郷土かるた」の基となった。

江戸時代は、遊郭が公許されていたほかに、様々な性娯楽が用意されていた。遊女、花魁は現代社会の銀座のホステスのようにスターとしてもてはやされていた。こうした遊女の評判記のようなかるたがあっても不思議ではないが、絵双六には「吉原おいらん双六」の類があってもかるたでは記録も実物も発見できていない。また、性行為の姿態なども春画のかるたになりやすいが、軟派の文芸作品[1]には「四十八手」の「床骨牌」が登場して意地悪な女性が「鬼札」を引いたのでアナル・セックスを強要される展開のものがあるが、かるたの実物は知らない。いろはかるた研究者の時田昌瑞はその著作『いろはかるたの文化史』[2]の中で、ポルノグラフィックな「いろは譬え」をもじった細工物を紹介しているが、それはいわゆる「おとなのおもちゃ」であってかるたではない。実際にそうした「わ」印のかるたがあったことまでは説明できていない。毎月十種類以上の新版の「わ」印本や浮世絵が出版されて巷に溢れていた江戸の社会では、それをかるたにするまでもなかったと言うことであろう。また、江戸におけるかるたの主要な購買層が女性であったことも、遊郭関連のかるたが不人気であったことに影響している。大人向けのかるたという場合、それは主として女性の大人向けのかるたであったことを忘れてはなるまい。


[1] 小松屋百亀「金勢霊夢伝」『秘本江戸文学選3』、日輪閣、昭和五十三年、二五三頁。

[2] 時田昌瑞『いろはかるたの文化史』生活人新書一二九号、日本放送出版協会、平成十六年、一二三頁。

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