むべ山かるた」(上方風、  制作者不明、江戸時代後期)
むべ山かるた」(上方風、
制作者不明、江戸時代後期)

しかし、私は、江戸時代中期(1704~89)でも早い時期の上方製と思われる「上方風」の札を発見し、手元に確保することができた。これを基に「むべ山」の発達の跡をたどりたい。

まず、「上方風」かるたの外形の事実であるが、漆を生掻けした木箱は縦十四・七センチ、横九・一センチ、高さ六・一センチである。天明年間(1781~89)以降の「むべ山」の箱は縦十三・八センチ、横八・八センチ、高さ五・〇センチが定型であるので、縦長で一回り大きいことになる。次に、この「上方風」かるたの札は、縦六・一センチ、横三・四センチで、五十枚ずつが四列、都合二百枚が一箱に収まっている。これと比較すると、江戸時代後期の大坂製の「江戸風」かるたの札は縦五・八センチ、横三・四センチであるので、「上方風」のものの方がやや細長い印象を受けるが、中に収められている札の大きさからすると箱がやや余計に長目であり、元箱であるのか確信が持てない。一方、「江戸風」のかるた箱では、横面に小判型の枠で囲ってむべ山と捺されており、元箱であることが分かる。なお、この少し細長い札は、他の賭博用のカルタでも古いものに見られるサイズであり、これも江戸時代後期(1789~1854)以降の賭博札では五・二センチ、三・一センチに小型化されている。「上方風」のものが「江戸風」のかるた札の残存例と比べて一時代古いように見える。

また、「上方風」の札はやや厚めで「江戸風」と触感が異なるが、それは、この札では和紙を重ねて芯地にしており、同じ大坂のかるた屋の製法による「むべ山かるた」でも、「江戸風」のもののように砥の粉を混ぜた糊を厚くひいて芯地にする京都発祥の製法をとっていないからである。

なお、「上方風」の札では、字札が黒裏で、絵札が赤裏であるが、「江戸風」の札では、字札が赤裏で、絵札が黒裏である。この逆転が、いつ、何故に生じたのかは知らない。

そして、肝心の札の表面であるが、「上方風」の札の図像を見ると、札そのものの大きさとのバランスが微妙におかしなものがあり、最初からこの札の大きさを想定して戯画を描いたというよりも、もとはもっと大きな手描きないし木版の札があって、その図像を小型化して載せた際のアンバランスのように見える。元来は普通の手描き、手造りの「百人一首かるた」の下の句札に実験的に歌意図を入れ、それが戯画化する途中で、賭博系の遊技に適するように賭博系カルタの大きさの小形木版札が作られて、そちらが主流になったという発展の経路が考えられる。たが、肝心の「大形」の「むべ山かるた」の史料が見付からず、決定的な判断ができない。岡山県には明治年間(1868~1912)以降の機械印刷の百人一首かるたで「むべ山風」の札だけが特別に色付けされているものがあるが、字札に戯画があるわけではなく、江戸時代のものが見つからないので断定的なことが言えない。

「上方風」の「むべ山かるた」では、百枚の下の句札の内、四分の一程度の枚数の札では、和歌の内容をそのまま絵にした歌意図があり、そこには戯画化に向けたひねりももじりもやつしも入っていない。明治年間(1868~1912)以降に東京で使用された「江戸風」の「むべ山かるた」では、かつて佐藤要人が懇切丁寧に解説したように百枚共に戯画化されている。つまり、「むべ山かるた」の変化は徐々に進行して天明年間(1781~89)に完成し、その後も新アイディアのひねりやもじりを加えたものが生じているが、「上方風」のかるたではまだその途上であったことになる。シンプルな歌意図の残る「むべ山かるた」は古くてしかも上方出来、ということができよう。

「むべ山かるた」・寂蓮法師和歌  (右:上方風、中:江戸風、左:後期江戸風)
「むべ山かるた」・寂蓮法師和歌
(右:上方風、中:江戸風、左:後期江戸風)

次に、このひねりやもじりの具合であるが、例えば「霧立ちのぼる秋の夕ぐれ」の札では、「上方風」は草原に「霧」が立ち上っている歌意図であり、それが「江戸風」では「切り」株の上に男が立っている戯画になり、さらに後の時期には明確に「桐」と分かる木に登っている戯画になっている。また、初期から戯画であったものでいえば、「濡れにぞ濡れし色はかはらず」は、「上方風」では水面を泳ぐ鵜であり「江戸風」でもその鵜の構図は継承されていたのに、途中から江戸の笑いに近づき、水に落ちた小判に変化している。こういう変化は複数生じているので、基準となる各時代の札のデータが公開されれば、残されたカードがいつごろのものであるのかも分かるようになるであろう。ただし、多数のカードでは、当初の戯画がそのまま踏襲されて、明治年間(1868~1912)、終末期の「むべ山かるた」にまで継承されている。たとえば、『別冊太陽いろはかるた』に掲載されている明治(1868~1912)の「むべ山かるた」二十四枚のカードを見ると、「忍ぶることの弱りもぞする」「竜田の川の錦なりけり」「逢はでこの世を過ぐしてよとや」「世をうぢ山と人はいふなり」「人こそ知らねかはくまもなし」「花ぞむかしの香に匂ひける」「洩れいづる月の影のさやけさ」「なほ恨めしき朝ぼらけかな」「焼くや藻塩の身もこがれつつ」「芦のまろ屋に秋風ぞ吹く」「花よりほかに知る人もなし」は古くからの戯画の図像のままであるし、「雲のいづこに月宿るらむ」「吉野の里に降れる白雪」「からくれなゐに水くぐるとは」「衣干すてふ天の香久山」「衣かたしきひとりかも寝む」は古くからの戯画のモチーフで図柄を分かりやすいものに改定している。大きく変化したのは「紅葉のにしき神のまにまに」「霧立ちのぼる秋の夕ぐれ」「長々し夜を独りかも寝む」「置きまどはせる白菊の花」「白きを見れば夜ぞ更けにける」「乱れそめにし我ならなくに」の六枚である(「激しかれとは祈らぬものを」は古いカードが欠落していて比較できない)。ここから見えるのは、役札にも古風な構成のものがありこれはその一例であって、そこからも時代色が見えるということである。

なお、上方製の「むべ山かるた」の読み札を見ると、基本的に冷泉家流の表記である。大坂のかるた屋が、なぜ、江戸時代中期(1704~89)にはすでに支配的になっていた二條家流の表記を採らなかったのかは分からない。また、式子内親王の読み札には、この札だけに固有なのだが、四角い枠に囲まれた賞の文字がある。他の札、とくに「むべ山風を」の札にもない表記であり、この札には何か特別の価値が認められていたのであろうけれども分からない。

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