こうした変化は様々なタイプのかるたで生じて、各種の「いろはかるた」が出現したものと思われるが、「譬えかるた」の場合は少し違った経路をたどっている。このかるたでも、初期の「絵合わせかるた」の時期には、「漢字札」に「芸依道賢」や「捨身有浮瀬」とあり、「仮名札」には「げいはみちによつてかしこし」や「みをすててこそうかむせもあれ」とあったのであろう。それが、かるた遊技の普及、大衆化にともない、「漢字札」上の「芸依道賢」や「捨身有浮瀬」は読みにくいので横に振り仮名をつけるようになり、それならば最初から平仮名表記にしてしまえということになった。しかし、二枚のカードに同じ譬えの表記があるのはいかにも凡庸で重複感が強いし、譬えの文句は人名、器物名、舞台の演目名などよりも長文なのでカードに収まりにくく、そこで誰かが、譬えを前半部分と後半部分に二分して、漢字交じりの平仮名表記で二枚のカードに分かち書きすることを思いついたのであろう。滴翠美術館のかるたコレクションには、享保年間(1716~36)以前の古い「譬えかるた」があるが、そこでは「読み札」となったと思われる譬えの前半部分のカードには漢字交じりの平仮名文と挿絵が残り、「取り札」となる譬えの後半部分のカードには漢字交じりの平仮名文しかない。一見奇妙な感じがするが、それは「取り札」に絵がある「いろはかるた」類のカードを見慣れている現代人の感性であり、考えてみれば「百人一首歌合わせかるた」でも歌人像の絵は「読み札」についているのであり、江戸時代人の感性で見れば「読み札」に挿絵があって「取り札」にないのはそんなに奇妙ではなかったのであろう。

幸いなことに「譬えかるた」では、こうした変化を示す資料がわずかであるが残されている。まず、いろはかるた研究者の鈴木棠三旧蔵の「譬えかるた」[1]は、一対のカードの各々に、大きな平仮名と小さな漢字で譬えの前半部分ないし後半部分が二通りに書かれている。譬えを二分して平仮名表記するようになったが、「漢字札」のイメージがまだ残っていて、「わらふかどには」の横に「笑門」、「ふくきたる」の横に「来福」とある。「かにはこうににせて」「あなをほる」は「蟹似甲セテ」「彫穴」であり、「ろんごよみの」「ろんごしらず」は「読論語」「不知論語」である。また、「取り札」から挿絵をはずしたことの補償のように「ふくきたる」「来福」の横に「上ずなまんざい」、「あなをほる」「彫穴」の横に「やつこにびくに」という冗句が加えられている。「不知論語」の冗句は「寺方の門まつ」である。鈴木はこれを明和年間(1764~72)以降のものとするが、私はもっと古く元禄~享保年間(1688~1736)のものとみている。

もう一点は、東京目黒区にある日本民芸館蔵の「ことわざ百句かるた」[2]である。これは、字札・「読み札」は譬えの前半部分のみ、絵札・「取り札」はその譬えに関連する絵のみという構成のかるたであり、譬えを二枚のカードに平仮名で書きしていたころに近い時期、江戸時代中期(1704~89)の半ばあたりのものと思われる。ただ、前後半部分への分割のバランスはぎこちなく、「おふた子に」の続きの「教へられて浅瀬を渡る」は長すぎるし、「とうらうがおの」には「廻す」が付くことは稀で通常は「蟷螂が斧」で完結してしまう。古い時期の「譬えかるた」からの脱皮はまだ不完全である。

そして、江戸時代中期の終わり、天明年間(1781~89)に生じた「いろは順化」ブームの中で、「譬えかるた」にも新顔が登場した。四十八対のカードをいろは順に整序して、「読み札」に譬えの全句の文字を載せ、「取り札」に「い」や「ろ」の頭字一文字を加えた絵を載せる「いろは譬え合せかるた」、略して「いろはたとゑ」、後の「いろはたとへ」である。この新顔が大いに流行して、旧来の「譬え合せかるた」もしぶとく生き残ってはいた[3]が、いろはかるたの主流は「いろはたとへ」と考えられるようになった。


[1] 鈴木棠三『今昔いろはカルタ』、錦正社、昭和四十八年、二七頁。

[2] 森田誠吾『昔いろはかるた』、求龍堂、昭和四十五年、三四頁。鈴木棠三『今昔いろはカルタ』、錦正社、昭和四十八年、三四頁。

[3] 北村孝一「『たとへかるた』の流行と衰退」『第11回ことわざフォーラムプログラム』、ことわざ研究会、平成十一年。江橋崇『ものと人間の文化史173 かるた』、法政大学出版局、平成二十七年、二二四頁。

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