(一)『翟巣漫筆』の「譬え合せかるた」と「いろは譬え合せかるた」

ここで、江戸時代後期(1789~1854)の「絵合せかるた」類の中で特に人気の高かった「いろは譬えかるた」について整理しておこう。私はこれまですでに、江戸時代前期(1652~1704)に「譬え合せかるた」が発祥して長い期間愛好され、そこから江戸時代中期(1704~89)の後半、概ね天明年間(1781~89)頃にいろは順に整序した「いろは譬えかるた」と言う新種が登場し、その後、長期間、旧来の「譬え合せかるた」と共存、競合し続けてきたことを説明した。ここで扱うのは、その後、江戸時代後期(1789~1854)の事情である。

昔よりありしいろはたとへ哥かるた

ここで真っ先に注目するべきなのは、幕末期(1854~68)に江戸の斎藤別岑が書き残した『翟巣漫筆』の慶應二年(1866)の項にある記述である。斎藤はここで、「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」「文化頃、北斎のいろはたとへ」「又同じころのたとへ哥かるた」「いろは地口」の四種類の「譬えかるた」類に言及した。このうち、第四の「いろは地口」について、後世のいろはかるた史の研究者、鈴木棠三がこの記録を歴史史料として活用した際に、「いろは地口かるた」であることが理解できないで「余興」として切り捨てて大きく道を誤ったことについてはすでに指摘した。ここでの関心は、この「いろは地口」以外の前三者である。

斎藤はここで、まず「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」を指摘した。ここで「昔よりありし」というのは斎藤の少年時代、文化、文政期(1804~30)よりも昔という意味である。鈴木はこれを、江戸時代中期(1704~89)からあったものと想定している。ここで紹介されているものは、斎藤の記憶が薄れていて一部脱落があるが、つぎのようなものである。

「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」

いわしのあたまも信心から

ろ(欠落)

はりの穴からてんのぞく

にかいからめくすり

ほとけのかほもさんど

へたの長だんぎ

とうふにかすがひ しよりのひやみつ

ちこくのさたも金次第

りんけんあせのことし

ぬ かにくき

るいはともをよぶ

をふたこよりだいたこ

わらふ門には福来る

かへるのつらへみづ

よめとを目かさのうち

たうといてらは門から

れん木てはらをきる

そでふりあふもたしやうのゑん

つきよにかま

ねこにこばん

なくことぢとう

らいねんの事をいはゝ鬼がわらふ

むまのみゝにかせ

うじよりそだち

ゐつ寸先はやみ

のみといはゝつち

おにも十七

くさいものにふた

やみのよにてつほう

まかぬたねははへぬ

け(欠落)

ふ(欠落)

これにこりよだうさいばう

えんはいなもの かいからめくすり

てらからさと

あしもとからとり

さけをかつて尻を切るゝ

き(欠落)

ゆうれいのはまかせ

めくらの垣のぞき

みはみでとほる

しやうづの手から水

ゑんの下の舞

ひん僧のかさねとき

もちはもちや

せいは道によつてかしこし

すずめ百迄踊わすれず

文化頃、北斎のいろはたとへ

これは、明治年間(1868~1702)まで大阪で伝わっていた、上方の「いろは譬えかるた」であり、それが江戸に下って愛好されていたということになる。「い」の札が「いわしの頭も信心から」であるが、何よりも特徴的なのは「こ」の札が「これにこりよだうさいぼう」(是に懲りよ道斎坊)である。これは、以前から上方に伝わる百対・二百枚の「譬え合せかるた」をいろは順に四十七対・九十四枚に整序したものであることが分かる。鈴木は、この「昔よりありしいろはたとへ哥かるた」を江戸時代中期(1704~89)以前のものに由来すると判断したがやや乱暴な推論で、正確には、斎藤が紹介しているものは、「譬え合せかるた」そのものではなくそれをいろは順に整序した上方の「いろは譬え合せかるた」である。

いずれにせよ、江戸のいろはかるたは、昔は上方から下ってきたものであったのである。