(三)賭博犯処罰規則の制定

これに手を焼いた政府は、折からの自由民権運動、とくに過激な暴力主義的な運動に博徒が加担して社会秩序の破壊に手を貸すことを恐れて、早くも「刑法」施行の翌年、明治十六年(1883)に「刑法」、「治罪法」の改正を検討し、明治十七年(1884)一月に「賭博犯處分規則」[1]を制定、施行した。これは、賭博犯については「刑法」の規定があるのにその適用を停止して裁判所の裁判の対象から外し、警察処分に移したものであり、裁判ではないので公判、弁護、上訴の道がなかった。さらに、科される刑罰は、「刑法」が定める重禁錮であるが裁判所の裁判で科されるものではないので一応「懲罰」という別称にしてあるが、懲役場に入れて重禁錮に準じて取り扱い、付加される「過料」も「刑法」上の罰金と同じ扱いを受け、科刑の事実も裁判所の判決と同じように記録にとどめ、重禁錮と同一視されて前科の扱いになるというものである。また、「懲罰」も「過料」も従来の賭博犯の処罰に比べると比較にならないほどの重罰であった。そして、賭博の捜査では、「治罪法」の規定にかかわらず、警察官の身分を証明するものさえ携行すれば昼夜の区別なくいつでも、どこにでも立ち入って捜索することが許されていた。結果として治外法権の及ぶ外国人所有の家屋に踏み込んでしまった場合であっても事後に調整すればよしとされて許容されていた。

要するにこれは、横行する博徒を規制するために近代刑事法の枠外で厳しく弾圧を加えようというものであり、法治主義の観点からはとうてい正当視できないものであったが、博徒対策という点で容認せざるを得ないと受け止められていたようである。

そして「賭博犯處分規則」の執行と廃止であるが、明治十七年(1884)一月の同規則施行に際して行った訓示[2]で、内務卿は賭博行為を行う者に三種類があるとしている。第一類は博徒であり、第二類は単純賭博者であり、第三類は多少の賭けを伴う遊技を行う者である。訓示は、「賭博犯處分規則」が目的とするのはこの第一類の撲滅であるから、規則の運用においてはこの三種類の賭博行為の違いをよくわきまえて、過剰な処罰にならぬよう、緩急よろしく事に当たるように求めて、規則の適用範囲を博徒集団の賭博行為に限定せよと指示した。しかし、にわかに強大な権限を与えられた警察が、それを濫用して横暴な取締りを行うことは眼に見えている。警察が違法な賭博だと断定すれば、それを処罰する権限はその警察当局にあって、他には誰にもその横暴な権限行使を抑制することはできないのである。警察の判断に対する上訴の道が閉ざされていることは致命的であった。

この新規則が実施されて間もなく、静岡県で山本長五郎(清水の次郎長)が賭博開帳の主犯として捕縛され、静岡県警察本部で「懲罰」七年、「過料」四百円に処せられた[3]。山本はすでに以前から賭博営業からは足を洗って正業に就いていたのでこれは冤罪であったが上訴の道もないので刑に服することとなった。これを一年前の明治十六年(1873)三月に刑法の賭博罪で処罰された京都の博徒の首領である上坂仙吉(会津の小鉄)が重禁錮十月、罰金百円であったのと比較しても刑が極端に重く、次郎長という名前の知名度の高さもあって、全国の博徒取締のモデルとされた。そして、全国各地で、警察本部ないし主要な警察署長の独断で多数の博徒が捕縛、処罰されて、博徒はその勢いを失った。この取締りが極端に厳しかったので、処罰されるものが全国に溢れ、各地の監獄處が満杯になって一般刑事犯の処遇に困難を生じさせるほどであった。そこで、明治十八年(1885)十一月に山本が「過料」を納入して「仮免」で釈放されると、これも全国のモデルとなり、各地で「仮免」が行われるようになった。

結局、この規則は、確かに博徒抑圧の効果はあったが、条約改正のための近代法制度の整備という国策からすると耐え難いほどの逸脱行為であり、明治二十二年(1889)二月に発布された「大日本帝国憲法」第二十三条「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」及び第二十四条「日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルルコトナシ」とも矛盾するので、明治二十二年(1889)六月に廃止された。

 私は、こうした「賭博犯處分規則」の存在をもって、日本の賭博遊技の文化とその規制はなお近世という時代区分に収まるべきであると考えている。取締側の権力者が広大な権力をもって恣意のままに取締に緩急をつけて、人々は身柄を拘束されて刑罰を加えられて生活が破壊される恐怖に小さくなって生きている。激しい労働と去ることのない貧困の中で行われる余暇の遊技にも監視と抑圧がのしかかってくる。こうした中で江戸のカルタ文化は日が沈むように消滅していった。明治前期の二十年はその残照の時期であり、賭博遊技の近代は他の領域よりも遅れて始まったのである。

 


[1] 賭博犯處分規則については、高橋雄豺「明治十七年の賭博犯処分規則」(一)~(五)、『警察研究』四三巻三号~七号、昭和四十七年。神谷力「明治賭博犯処分制度の構造と機能」『牧健二博士米寿記念日本法制史論集』思文閣出版、昭和五十五年、七一七頁。末澤国男「明治一七年賭博犯処分規則の法史学的意義」『日本大学大学院法学研究年報』二十五号、平成七年、一八一頁。岡本洋一「賭博犯処分規則についての一考察」『関東学院法学』十八巻三・四号、平成二十一年、一二九頁。

[2] 『庁府県警察沿革史其ノ一 警視庁史稿上巻』、内務省警保局、昭和二年、四一一頁。

[3] 江橋崇、前引第二章注69『ものと人間の文化史一六七 花札』、一七三頁。