従来の研究では、「絵合せかるた」の中では、江戸の火消しが待機中に遊んだかるた、「ガラ札」が妙に有名であった。発端は山口吉郎兵衛の『うんすんかるた』である。ここで山口は、蒐集した幕末期から明治前期の「ガラ札」(別名「ピイ」「天窓」)[1]を紹介し、それが絵札百三十枚(あるいは百四十枚)と同数のクジで構成されていること、絵札の図像は「小櫃、小判、帳面、燕、太鼓、お福、盤若、翁、鬼、鯛、鯉、亀の子、鶴、盃、賽、招き猫、千両箱、纏、犬張子、風車、唐辛等」であることを紹介した後に遊技法と賭金の精算方法に触れ、最後にこれがあまり広く行われず、「東京に限られたもの」であったという伝聞を記している[2]

豆本『がらの話
豆本『蛙庵雑録特集号・がらの話』
㊤、㊥

こうした山口の紹介ではよく分からなかった「ガラ札」をはっきりさせたのは江戸文化を研究して「火消し」に詳しい昭和後期の研究者、神保侃司(じんぼただし)である。神保は火消しの頭(かしら)の家系の家で古老からこのかるたの遊技法を聞き取り、残存していた大正年間(1912~26)の「ガラ札」も発見して世に紹介した。そこでこのかるたは好事家の関心を引き、江戸の華、火消しの文化を代表するものとして有名になった。私の手元には、彼の話を基にして作られたガリ版摺りの豆本『蛙庵雑録特集号 がらの話』[3]上巻、中巻がある。これは、昭和五十~五十一年(1975~76)に蛙庵主人長谷川慶太郎が刊行した三十部限りの小冊子であり、そこでは、神保の話と記録を基にして「ガラ札」の遊技法が解説され、また、そのカードの図像が紹介されている。他方で神保本人は、昭和五十六年(1981)の『季刊江戸っ子』第二十九号、エドガー・ジンボーという筆名で「江戸町火消し文化の光彩 がら・がら・がら」を発表し、そこに改めて「ガラ札」のカード百四十枚の図像を写真版で紹介している。図像は次のものである。

がら札(エドガァ・ジンボー「がら、がら、がら」)

 「塩汲み」「御神酒」「人力車」「犬張子」「土蔵」「志るこ」「徳利」「鎌輪奴(かまわぬ)」「万事(まんじ)」「湯呑み茶碗」「誰哉行燈(たそやあんどん)」「四つ目」「分銅」「桐」」「鶴」「蒸籠(せいろう)」「兜」「人相見」「龍宮」「百眼(ひゃくまなこ)」「巻き物」「七夕」「土瓶」「毛ぬき鮨の暖簾(のれん)」「酒樽」「日の出」「雛」「手毬(てまり)」「松」「蛤」「庖丁(ほうちょう)」「奴凧」「山鯨」「鯛」「団扇(うちわ)」「扇子(せんす)」「龍」「山車(だし)」「賽子(さいころ)」「王将」「蛇の目ずし」「梅」「菱餅」「桃」「入り舟」「槍」「丸に十の字の紋」「碇(いかり)」「月」「鳥居」「海老」「金太郎」「珊瑚」「富士」「茶めし売り」「鉞(鉞)」「お刺身」「大丸」「紅葉」「筆」「菊」「書物(ほん)」「鈴」「山川白酒」「網干し」「注連縄(しめなわ)」「大入り」「牡丹」「五大力」「日章旗」「竹」「薬玉」「お供え」「箱枕」「焼き芋屋」「水車」「大福帳」「糸志ん」「兎」「春駒」「幣串(へいぐし)」「蓑(みの)」「「団子」「宝笠」「凧」「ひょっとこ」「西瓜」「火の用心」「臼」「牛肉店いろは」「大盃(おおさかずき)」「狐の面」「後ろ向きの女」「おかめ」「三枡」「鼠」「福良雀(ふくらすずめ)」「浪」「提灯(ちょうちん)」「鍵」「太鼓」「待合」「熊手」「糸巻」「蕎麦屋(そばや)」「宝珠」「大当り」「熨斗(のし)」「朝顔」「市松模様」「金札」「釣鐘」「山帰り」「寄世行燈(よせあんどん)」「三筋に蝙蝠(こうもり)」「三番叟(さんばそう)」「角力(かくぢから)」「三ツ鱗」「飛んだり跳ねたり」「絵の具屋の看板」「千両箱」「鰹魚(かつお)」「瓢箪(ひょうたん)」「蝶々」「袢天(はんてん)」「弥次郎兵衛」「文(ふみ)」「丁字(ちょうじ)」「両大師」「刀脇差」「達磨」「御幣」「いの字」「三っ柏」「理髪床(かみどこ)」「亀」「おでん屋台」「菖蒲」「鷄」「杵」

これと山口が『うんすんかるた』で紹介したものと比較すると、図柄が合致するのは三分の一程度であり、「小櫃」「小判」「燕」「お福」「盤若」「翁」「鬼」「鯉」「亀の子」「招き猫」「纏」「風車」「唐辛」等、三分の二は不一致である。データが少なすぎてうまく判断できないが、時期が異なり、制作者が異なっても共通する普遍的な図像の札のパターンが成立していたのかどうかは不明である。

『蛙庵雑録特集号 がらの話』は神保の提供した情報をもとにしているのであるから『季刊江戸っ子』第二十九号との間に内容面での齟齬はないはずであり、実際に長谷川は神保が町火消しの家系の古老と面談して得た情報の記録と、その後に古老から送られた補足の手紙を要約したものであるが、それでも何点か食い違いがあり、その多くは長谷川の誤解によるものと思われるが、中には、「碇」に「水天宮さん」、「鳥居」に片足鳥居の「かたあし」が「あたあし」と訛った「あたしゃ本郷に行くわいな」という八百屋お七のセリフ、「山帰り」に清元の「チャチャチャンで伊勢の」に由来する「チャチャチャンで山帰り」があるなど、『蛙庵雑録特集号 がらの話』だけに固有の情報もある。また、神保が「蛇の目ずし」とする図像が長谷川では「すしやの看板」となる一方で、長谷川が「煙草入れ」と特定したものが神保では「火の用心」になるなど、図像の解釈でも長谷川に固有のものがある。そのほか、情報源の記述にも食い違いがあり、どこまでが神保からの、既発表、未発表の情報の伝達なのか、長谷川の独自情報なのか、実際のところは分かりにくい。

私は、昭和六十年代(1985~89)に神保侃司に面会している。晩年の神保の住まいは春日部市であったが実際には東京、浅草の都立病院に入院していた。見舞いをとても喜んでくれて、ガラについてよく語り、私の質問に答え、手元に持ち込んでいた『蛙庵雑録特集号 がらの話』を私に託した。病室は薄暗い大部屋で、その片隅で、江戸の文化を伝えてきた生命が誰に見守られるでもなく弱ってゆくのを眼にしても、私はまったく無力で、励ましの言葉を口にすること以外にはただ傍観するよりなかったが、何回か見舞う中で、いつの日にか「ガラ札」について聞いたことを書き伝えると約束した。数十年たってしまったがこの文章でその約束の一端を実現したい。


[1] この「ガラ札」の図像は滴翠美術館名品展開催委員会『滴翠美術館名品展』、小田急百貨店、昭和五十三年、一九九番。

[2] 山口吉郎兵衛『うんすんかるた』、リーチ(私家版)、昭和三十六年、七八頁。

[3] 長谷川長太郎『蛙庵雑録、私家版、昭和五十年。下巻は神保自身も所有しておらず、それが実際に刊行されたか否かは確認されていない。

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