ここで、「うんすんかるた模様」とされる器物について簡単に見ておこう。これらは骨董品として古くから珍重され、高額で売買されてきたが、元来は茶席の用具ないし遊郭などの家具、什器として制作されたものである。美術に造詣が深かった山口吉郎兵衛は、当然であるが多額を費やしてすばらしい品物を何点も蒐集しており、それを眼にし、手に取れば、その美術的なすばらしさに心が震える。例えば、私が最もすばらしいと思うのは、滴翠美術館蔵品の「清閑寺うんすんかるた香合」である。カルタ札の中でも重要な役目を果たす「ハウの一」、「あざピン」一枚をその形状のままに形にしたものであるが、顔料は赤色、青色、緑色の三色を用い、上蓋の表面はカルタの図像、器の横面は花柄の小紋に仕立ててある[1]。同じような趣向のものとして、『日本の博物館第5巻 大航海時代の日本』で紹介された、「ハウの五」を描いた仁清作の「うんすんカルタ模様香合」や、『王朝のあそび』[2]で紹介された、「イスの五」と「コップの六」を描いた南蛮文化館蔵の「うんすんかるた蒔絵香合」等があるが、私は「清閑寺うんすんかるた香合」が一番好ましいと思っている。

清閑寺うんすんかるた香合
清閑寺うんすんかるた香合
(『滴翠美術館名品展』)
仁清うんすんカルタ模様香合
「仁清うんすんカルタ模様香合
(『大航海時代の日本』)」

うんすんかるた蒔絵香合
うんすんかるた蒔絵香合 (南蛮文化館、『王朝のあそび』)
うんすんかるた模様蒔絵橡屋
うんすんかるた模様蒔絵橡屋
(『うんすんかるた』)

また、同じく滴翠美術館の蔵品に、御室焼か修学院御庭焼と見られる「うんすんかるた模様蒔絵橡屋(ひきや)」がある。「瓜形大振り薄作の茶入れ」であり、十二枚の天正カルタが色蒔絵で描かれている中で、「オウルの四」の札の中央に「五条橋通 不ていや 理兵衛 志やうしん」と四行に描かれている。山口は、こういうカルタ模様の器物を何点も蒐集していたが、著書『うんすんかるた』では、茶人の道具自慢に堕するのを嫌ったのであろうか、歴史史料として活用することはなかったが、この茶入れだけは、「オウルの四」に「ほてい屋理兵衛」とある点に特別の史料価値を認めて使った。茶人としての山口の謙虚な姿勢と研究者としての山口の誠実な姿勢が交錯するところであり、その人柄に胸打たれる。

それはさておき、カルタ史研究の視点からこれらの器物を見るとき、まず明らかなのは、うんすんかるた模様と言われているが、そのほとんどは天正カルタを写しているという事情である。一組七十五枚のうんすんカルタに加えられた「ウン」や「スン」の絵札、あるいは龍のいない「一」の札などが描かれている例はまず見たことがない。うんすんカルタに固有の紋標である「巴(グル)」も描かれたのも見たことがない。これはすなわち、こういうカルタ模様の器物が好まれたのは、天正カルタが南蛮渡りの新文化として上流階級の中で高く評価されるいっぽうで、七十五枚一組のうんすんかるたはまだ登場していなかった江戸時代初期(1603~52)ないし前期(1652~1704)の早い時期であったことを示している。この種の器物の制作された当時の名称は、単に「かるた模様」であったと思う。それがその後、江戸時代前期(1652~1704)の全社会的な賭博ブームの中で天正カルタがあまりに普及して通俗化する一方で、京都二條あたりで制作された七十五枚一組の手描きうんすんかるたが上流階級で好まれるようになり、いつしか、上流階級の家に伝来する美しいカルタ模様の器物がうんすんかるた模様と呼ばれて珍重されるようになり、その名が今日まで残っているということである。このことは、七十五枚一組のうんすんカルタの成立期についてもなにがしかの情報を示していると思う。

ウンスンカルタ蒔絵香合
ウンスンカルタ蒔絵香合

ここでもう一つ、奇妙な「ウンスンカルタ蒔絵香合を検討しておきたい。これは奈良の大和文華館の所蔵品である。この種の香合にお定まりの、二枚のカルタ札を「く」の字に重ねた形であり、カルタ札は天正カルタの「ハウの七」と「オウルの二」である。そして、このカルタ模様が奇妙なのは、「オウルの二」の紋標の中心に天正カルタにはなく、うんすんカルタにだけ現れている「グル(巴)」文様が描かれていることである。さて、これは何物なのであろうか。

これを、海外から伝来した天正カルタの中にこういう文様の「オウル」紋のものがあって、香合はそれを素直に写しただけであり誤りはなく、その後、これがうんすんカルタでは二分されて「オウル」紋標と「グル」紋標に別れたと解することもできる。あるいは、この理解とは異なり、香合制作の時期が遅く、すでにうんすんカルタが登場した後で、制作者がまだカルタ事情に不慣れなままに誤解して混同したミスだと考えることもできる。その場合、紋標「グル」の二の札を描いて、周りに誤って「オウル」紋の模様を加えてしまったのか、逆に、まず「オウル」紋を描き始めて、最後に中央の部分を描くときに誤って「グル」紋を描いてしまったのか、どちらであろうか。描かれている「グル」紋は、最初にその物を描いたとすると小さすぎる。逆に、「オウル」紋は標準的な大きさである。だから、「オウル」紋を描く中で「グル」紋に変じてしまったのだと理解される。

ところで、この香合が見本としたカルタ札は、木版のものか、手描きのものか。一般に、木版の天正カルタでは裏紙も木版で模様があり、その模様が縁返し(へりかえし)で表面の縁に出ているが、手描きのものでは銀裏紙ないし金裏紙で、縁返し(へりかえし)の部分は無地である。この香合の場合は、縁に緻密な斜線があり、裏紙が斜線の模様であったことが知れる。ところが、例えば右肩上がりの斜線模様であれば、縁返し(へりかえし)の部分は、上下左右の四辺いずれにおいても、右肩上がりの斜線になる。左肩上がりの斜線模様であれば,やはり同様に左肩上りの斜線になる。ところが、この香合では、「ハウの七」でも「オウルの二」でも、上下が右肩上がりで左右が左肩上りという具合に斜線の向きが異なっている。こういう事態は、通常は生じない。さらに、二枚のカルタ札の縁を見ると、上下左右の四辺のいずれにおいても、二枚のカルタ札で斜線の向きが逆転している。このカルタ札は同じ一組のものを描いたはずなのに、裏紙の模様が二種類あることになる。これはおよそカルタ札制作の基本に反する事態を意味している。つまり、表面、縁の部分の描写には致命的な誤りがある。

さてこれは、木版の天正カルタを写す際に香合の職人が誤ったのであろうか。そうだとすると、香合の図像の手本は木版のカルタであったことになる。だが、木版のカルタでは起こりえない斜線表現の乱れがあるので、香合制作の職人は、木版の天正カルタを模写した手描きのカルタ札を手本にしており、縁返し(へりかえし)の描写は、そもそも手本となった手描きのカルタ札を描いた段階で誤って描かれていたのかもしれない。こういう事態なら香合職人に責を負わせることはできない。こういうわけで、この香合のモデルが木版のカルタ札であったのか、それとも手描きの木版カルタ札であったのかはどちらとも決めがたい。このカルタ札の正体はなお謎の中にある。

天正カルタ文様丸盆
「天正カルタ文様丸盆
(三池カルタ・歴史資料館蔵)」

次に明らかなのは、こういうカルタ模様の器物は茶道具の世界にとどまらず、文箱、盆、皿などの食器などにも広まっており、そこから、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)のカルタ遊技のセンターであった遊里での愛好もうかがえることである。今日では由緒も不明の雑器として骨董店で売買されているが、かつては遊郭のざわめきの中で遊女と遊客の同席する席を飾っていたのではないかと思わせるものがある。大牟田市の三池カルタ・歴史資料館に径三十センチほどの丸膳がある。表面に数枚、天正カルタが描かれている比較的にシンプルな器物であるが、目立たない脚の部分に松葉の文様がある。私は、これは京都の遊郭で有名な「松葉屋」の器物と考えている。かつて、茶道具とカルタに詳しい人にお見せしたところ、江戸時代初期(1603~52)の南蛮蒔絵ですねとおっしゃった。だが、松葉屋の物だったのですかねとお尋ねしたら、黙って笑われた。こういう私の甚だ怪しい鑑定であるが、大名道具というほどの気品には欠けるが、かといって一般の家庭で使うものにも見えないカルタ模様器物があることを記しておきたい。

うんすんかるた蒔絵文庫
うんすんかるた蒔絵文庫(『王朝のあそび』)

この他に気になっているものの一つが、『王朝のあそび』[3]などで紹介されたことのある「うんすんかるた蒔絵文庫」である。ここでは、他の器物にない多数のカルタ札が描かれており、裏面を見せているものも多いし、重複もあるが、示されている天正カルタの情報量は圧倒的に多い。また、『日本の博物館第5巻 大航海時代の日本』[4]などで紹介された「うんすんカルタを象嵌した鐙」もある。天正カルタと永禄通宝、寛永通宝を象嵌で散らしたもので、カルタ札を貨幣とともに描いて賭博遊技の雰囲気を色濃く出しているふざけた作品で、茶道具とか家庭での実用品というよりは遊郭の一室あたりの室内装飾品と思われるが、カルタ札裏面の描写から「大坂九太郎町六右衛門」というカルタ屋があったことが分かる。九太郎町は久太郎町であろう。この鐙は大坂製ではなくて京都製の細工物であるが、いずれにせよ、大坂にも天正カルタを制作するカルタ屋があったことの証明になって興味深い。

天正カルタ模様の鐙
天正カルタ模様の鐙(『大航海時代の日本』)

ところで、カルタ模様の器具には、ひとつ大きな謎がある。かつて『南蛮漆藝』[5]や『ブック・オブ・ブックス 日本の美術●38日本の漆工』[6]で紹介された「縞ウンスンカルタ蒔絵重箱」(後者では「うんすんかるた蒔絵重箱」)がある。数枚の天正カルタが散らして描かれているが、上蓋には「オウルのキリ」と「イスのソウタ」がある。問題なのはこの「イスのソウタ」の図像である。これは明らかに男の兵士で、楯を振りかざす戦闘のポーズである。これと酷似するのが『童遊文化史』[7]で紹介された「天正かるた文様蒔絵手焙」である。描き方は前者よりやや丁寧であるが、同じカルタ札を写したと思われるほどに酷似している。さらに、同じ男性のソウタを描いた模様の文箱が三池カルタ・歴史資料館にある。この時代の遺物で、三点もあれば事件である。

縞ウンスンカルタ蒔絵重箱
縞ウンスンカルタ蒔絵重箱(蓋〉
(『南蛮漆藝』)
うんすんかるた蒔絵重箱
うんすんかるた蒔絵重箱
(『日本の美術38日本の漆工』)
天正かるた紋様蒔絵手焙
天正かるた紋様蒔絵手焙 (
『童遊文化史』)
天正カルタ文様文箱
天正カルタ文様文箱
(三池カルタ・歴史資料館蔵)

問題は男性のソウタをどう理解するかである。これまでのカルタ史研究では、伝来したカルタがポルトガルのものであるという論拠の一つとして、この国のカルタでは、ソウタは女性であるとしたシルビア・マン学説が挙げられてきた。それなのに、江戸時代初期(1603~52)の日本には男性のソウタも伝わっていたのである。ソウタを男性として描くスペイン製のカルタも伝わっていたということである。だが、スペイン船との交易の記録はない。したがって、ありうるのは、ポルトガル本国でもスペインのカルタ札との相違はあまり意識されることなく混在していて、ポルトガル船がスペイン製のカルタを運んできたという事情である。これは大いにありうる。ポルトガル船や後のイギリス船などにスペイン人の船員が雇用されて乗り込んでいたこともあったし、バタビアなどのアジアの交易港で売買されていたカルタの中にスペイン製の商品が混じっていても不思議ではない。そもそも、当時のカルタの愛好者は、ポルトガル製とスペイン製を区別していたのかも怪しい。

謎はこの先にある。日本では新村出の発見以来、カルタ用語はポルトガル語と考えるのが普通になっているが、よく調べて見ると、中には相当スペイン語が混じっている。だが、日本にはスペイン人が来た例は乏しいので、日本でポルトガル語のカルタ用語とスペイン語のそれが入り混じったとは考えられない。したがって、日本に伝来したカルタ用語は、日本国外のどこかで入り混じったものが伝来したことになる。それがどこか、又誰がそうしたのかは分からない。ここから直ちに、それは東南アジア一帯に居住していた中国系の住民、ないし、中国国内のマカオあたりの国際交易港の中国系住民の仕業であると結論づけることは結論の急ぎ過ぎであるが、ヨーロッパのカルタ遊技がアジアのどこかでワンクッションあってから日本に伝来したとは考えてみたくなるところである。ポルトガル風のカルタとスペイン風のカルタは、ただ札だけが入り混じったのであろうか。遊技用語はなぜ入り混じっていたのか。残されている「うんすんかるた模様」の器物は何も語らないが、その背景に思いを致すとき、こうして、もう一つの疑問へと扉を開くのである。

うんすんカルタの研究からすると、大分脱線した。ここで本線の研究に戻ろう。文献史料が絶望的に少ないこのカルタの研究は、まずはカルタ札をよく観察して情報を引き出すことから始められることになる。


[1] 遠藤周作『日本の博物館第5巻 大航海時代の日本』、講談社、昭和五十六年、五三頁。

[2] 朝日新聞社『王朝のあそび』、同社、昭和六十三年、三九頁。

[3] 朝日新聞社、前引『王朝のあそび』、三九頁。

[4] 遠藤周作、前引注1『日本の博物館第5巻 大航海時代の日本』、五八頁。

[5] 荒川浩和『南蛮工藝』、美術出版社、昭和四十六年、一〇四頁。

[6] 岡田譲『ブック・オブ・ブックス 日本の美術●38日本の漆工』、小学館、昭和五十年、六八頁。

[7] 半澤敏郎『童遊文化史』別巻、東京書籍、昭和五十五年、六二頁。

おすすめの記事