これまでの検討で明らかにしたように、二條通付近の絵草子屋で制作されていた手描き、手作りのカルタでは、例えば「ソウタ」図像の女性から坊主への変化が起きた痕跡がない。この地域で制作されていたカルタでは、一組四十八枚の伝来のカルタの札でも「ソウタ」の図像は女性の姿であり続け、名称も「ソウタ」のままであった。したがって、元禄年間(1688~1704)には、手描きの天正カルタやうんすんカルタでの女性像の「ソウタ」と、木版印刷の賭博系のカルタやうんすんカルタの僧侶姿の「坊主」が並立していたのである。実際に元禄年間(1688~1704)の、女性が「ソウタ」として手描きされている天正カルタ札さえが残っている。

これを誤解して、延宝年間(1673~1681)までに天正カルタの「ソウタ」はすべて「坊主」に替わったと認識すると、この時期以降に伝来の天正カルタからうんすんカルタへの分岐が生じたとすれば「ソウタ」は図像も呼称も「坊主」に変化しているはずであり、逆に女性像のままで、「ソウタ」という名称も残している一組七十五枚のうんすんカルタが成立したのは、このカルタが延宝年間(1673~1681)までに枝分かれして成立したからなのだと考えなければならなくなる。だが、この新説の考え方は、京都でのかるたの制作が六條坊門(五條橋通)一か所で行われていたというふうに史実を誤解した古説を前提にするからこう見えるのである。制作地が二條通周辺と六條坊門(五條橋通)の二箇所であったという理解に立てば、この新説は崩壊し、六條坊門(五條橋通)では「ソウタ」が男性化して「坊主」になったが、二條通では一組四十八枚の手描きの天正カルタの札ではなお女性の「ソウタ」であり続けたということになる。天正カルタの「ソウタ」の札はすべて「坊主」に変わったのではなく、女性の「ソウタ」と坊主姿の「ソウタ」の共存状態は江戸時代前期(1652~1704)にも続いたのであるから、こうした手描きの女性「ソウタ」の天正カルタから一組七十五枚の手描きのうんすんカルタが派生したのが元禄年間(1688~1704)であったと理解しても一向に差し支えないことになる。つまり、延宝年間(1673~1681)以前に七十五枚のうんすんカルタに分離したという新説は、なお説得力が足りない。

うんすんカルタは延宝年間(1673~1681)にすでに枝分かれしたという新説からすれば、その後の貞享年間(1684~88)にはもはや七十五枚のうんすんカルタ札しか存在しなかったのであり、『雍州府志』がいう「宇牟須牟加留多(うんすんカルタ)」もこれを使った遊技法でしかありえないということになる。だが、こうした新説の理解は論拠が不明確で支持しにくい。

くどいようだが、寛文年間(1661~673)、延宝年間(1673~1681)に坊主の図像に変身したのは、六條坊門(五條橋通)製の、かつて『毛吹草』が「麁相物(そそうもの)」(粗悪品)とした賭博用の木版手彩色の「カルタ」であり、うんすんカルタの母体になったような高級な手描きの「カルタ」はこういう変身は遂げていないのである。

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