歌合せかるたの遊技法は、最初は『当家雑記』がいうように「貝覆い」と同じく「下の句」札を床上に円形に並べ、その中央の空地に「上の句」札を一枚出して対応する「下の句」札を探すというものであった。まさに「上の句」札と「下の句」札を合せ取る「歌合せ」の手法である。

こうした歌合せかるたの遊技は、貝覆とそれを引き継いだ「絵合せかるた」の伝統を引き継いでいるものであるから、このかるたが考案された発祥期にはすでに流行したはずである。ところが、江戸時代初期(1603~52)のかるた事情については最重要な文献史料である正保二年(1645)刊の俳諧論書、松江重頼著の『毛吹草』には奇妙な事態が発生している。同書はカルタについては数カ所で触れており、当時社会的に流行していた双六、囲碁、将棋その他の遊技やその遊技具にも繰り返し触れている。だが、「歌合せかるた」については、「烏丸(カラスマルニ) 金賀留多(キンカルタ) 歌賀留多(ウタカルタ)」[1]とあるのでそのカードの存在は認識していたと思われるが、それを用いた遊技については一切言及がない。また「歌貝」や「続松」という言葉も登場しない。これはつまり、「歌合せかるた」遊技の流行は上流階級の一部に限られていて、俳諧で扱うべき社会事象ではなかったと言うことである。『毛吹草』は序文でその内容は寛永十五年(1638)に完成しているとしているのでそれに従えば、寛永年間(1624~44)までは、「歌賀留多」は武家社会の女性を中心とする一部の者の遊技具であったということになる。私は、歌合せかるたの全社会的な流行の始期は第四代将軍徳川家綱の就任後、承応年間(1652~55)以降の江戸時代前期であろうと考えている。以前のように「道勝法親王筆かるた」を慶長、元和年間(1596~1624)のものとする理解が疑われることなく通用していれば、歌合せかるたの発祥期もこれに合わせて慶長、元和年間(1596~1624)と考えることになるが、このかるたは承応年間(1652~55)以降のものと考え直すとき、歌合せかるたの発祥期、流行期の判断も考え直さないわけにはいかない。


[1] 松江重頼『毛吹草』、岩波文庫、昭和十八年、一六〇頁。

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