(三)歌意図の食い違いと書家の関与

問題はこの先にある。かるた札は一対の上の句札と下の句札を、前者を右に、後者を左に隣接させて並べて見ると、図像が見事に連続しており、元々かるた札二枚分の大きさの一枚の紙に歌意図を描き、それを二つに裁断してかるたに仕立てたことが分かる。ところが、百対のうち三十対以上で、左右が入れ替わり、図像の右半分の札に下の句が、左半分の札に上の句が描かれている。これらについては、文字の表記を軸にして、右側に上の句札を、左側に下の句札を置くと、図像の配置が逆になり、意味合いが理解しにくくなる。絵師が折角苦心して描いた図像が書家によって台無しにされているのである。また、このほかに、図像が連続しようのないものが喜撰法師、陽成院、素性法師、文屋朝康、中納言敦忠、儀同三司母の六枚である。ここには、絵師と書家の間の意思疎通の悪さ、イメージの相違という混乱が生じている。こういう高級なかるた札でこの種の混乱が起きるのは珍しいことである。それはなぜであろうか。

この点を理解するために、歌合せかるたの制作工程を考えてみよう。一般に、百人一首かるたでは、まず、絵師にかるた札の大きさを指示して歌人の図像を描かせ、それをかるた屋の工房に引き取って、芯紙を貼り合せてからかるた札の大きさに切断し、次に裏紙と貼り合せて縁返しの細工を施し、それを書家の手元に運び、書ができたらもう一度かるた屋の工房に戻して、艶出しや微妙な反り入れなどの仕上げの工程に入ることになる。

ここで図像と書の関係であるが、図像ができたら切断せずにそのまま書家のところに運び、書を済ませてから芯紙と貼り合せて切断し、次に裏紙と貼り合せてかるたに仕立てていくという順序も考えられるが、このかるたの場合は、上の句札と下の句札で図像がまるで合致しないものが喜撰法師の札など六対ある。一枚の図像の上に書を加えてから二枚に切断するのではこういう混乱は生じないのであり、二枚のかるた状に切断されてから書家に提供されたことが分かる。

そうすると、左右の食い違いという混乱はもっぱら書家の工程で生じたことになる。それはなぜなのか。意図的なのか、うっかりミスなのか。私は、意図的だと考えている。百人一首かるたでは、上の句札には、歌人名と上の句が書かれる。漢字を使えば字数が減るが、仮に平仮名で和歌を書いたとすると、和歌の本文が十七文字、それに歌人名が、最短で伊勢や菅家のような二文字だとしても十九文字入る。歌人名が長いと、最長は法性寺入道前関白太政大臣で十二文字、合計二十九文字になる。一方下の句札は十四文字である。つまり、上の句札と下の句札に連続する歌意図を描くのであれば、上の句札の方に書を入れる広いスペースが欲しいところである。ところが、このかるたの絵師は、おのれのイメージのままに図像を決めており、概ね、画面の右半分に図像の中心を置いて複雑な図像を描いている。左半分には空地が広い。そこには、自分の絵に後続する書の作業手順、文字用のスペースへの十分な配慮がない。そのために、二枚に分割した図像のうち、右の札には、歌人名と上の句を書き込むスペースが見いだせず、無理をすれば図像の上に書を書くという絵師に対して非礼な事態になる。それは当然であるが出来上がったかるたの魅力の大幅な減少にもなる。それを恐れたのであろう、書家は、やむなく、図像のない空間の広い左半分の札に歌人名と上の句を書き、余地が狭い右半分に字数が少ない下の句を書いたものと思われる。そうすると、図像が左右逆になっておかしなことになるが、書家にしてみれば、そんなことは絵師の責任で我関せずなのであろう。

吉田家旧蔵かるた・歌意と図像の不一致
( 制作者不明、江戸時代前期)右上より縦に、
平兼盛、 和泉式部、前大僧正行尊、祐子内親王家紀伊。

これに加えて、書家の無頓着がある。すでに指摘しているように、百対のかるた札のうちには和歌の歌意と図像が合致しない図像が多くある。それも、百対の札の中で混乱が起きて、札が入れ替わって意味不明になったというのではなく、まったく別の組のかるた札が混じっているのである。とくに、喜撰法師の札は「我庵は都のたつみしかぞ住」「世を宇治山と人はいふ也」なのに波打つ大河に橋が半分の絵である。中納言敦忠の札は「逢見ての後の心にくらぶれば」「むかしはものを思はさりけり」なのに雲にかすむ山の絵である。前大僧正行尊の札は「諸共に哀とおもへ山さくら」「花より外にしる人もなし」なのに山も群生する山桜もなくて川岸に孤立した桜樹である。祐子内親王家紀伊の札は「おとに聞たかしの浜のあた波は」「かけしや袖のぬれもこそすれ」なのに海も衣服を架ける樹木もなく、川岸に咲き乱れる杜若の群生である。このような札では他の組の百人一首かるた、あるいは伊勢物語かるたのような異種の組のかるたとの混同が疑われるのであるが、書家は無頓着で、こうした札にも文字を書き加えている。

こうであれば、紫式部の札が「めくりあひてみしやそれともわかぬ間に」「雲かくれにし夜半の月哉」なのに図像は松の木越しに煌々と輝く満月の月で雲が一片もないのにも気にせず書を加えているのも別に大したことではなかったのであろうし、中納言行平、菅家、壬生忠見、謙徳公、前大僧正行尊、参議雅経等の札では、右半分に十分なスペースがあるのに左半分の札に歌人名と上の句を書いたりしているが、これも無頓着なのであろう。結局、上の句札と下の句札の大雑把な逆転、まったく別のかるたの札の混在を気にしないで書いていることを念頭に置いてこのかるたの札を細かく見ると、書家は、与えられた仕事を早く処理して納品することに関心があり、芸術作品としての完成度を高めることに意を配って推敲を重ねてはいないように思えてくる。

いっぽう、このかるたの書の内容から見えてくるものは何か。まず、歌人名の表記であるが、元禄年間以降の標準型の二條家伝来の百人一首かるたの表記を正しく実現している。柿本人麿は、かるたの世界では古くから柿本人丸と表記しているが、本品では正しく人麿である。中納言敦忠、前大僧正行尊、従二位家隆もこの流派の約束通りである。その他、在原業平朝臣のような朝臣という表記の抜けもなく、この書家が百人一首という和歌によく通じていることをうかがわせる。和歌の本文の表記は明快で、歌を良く理解したうえで書いている。文字遣いも妥当で、誤記もない。上で述べたように、書が図像にかぶさって台無しにすることを避けようとする配慮から生じたのか、図像のないスペースを飛び回る散らし書きになっているものも何点かある。書家の教養は深い。