八 和漢泰西先哲格言のかるた

和漢泰西先哲格言以呂波骨牌

 

ここで、「英語諺和英かるた」との関係で興味あるいろはかるたを紹介したい。それは明治二十四年(1891)に伊勢國渡會郡宇治山田町の三重縣士族、吉田轍五郎を編集兼発行者として出版された「和漢泰西先哲格言以呂波骨牌(わかんたいせいせんてつかくげんいろはかるた)」一枚である。その内容は次のとおりである。

イ:「一羽燕子不為夏」(イチハノツバメナツヲナサズ)

ロ:「得隴望蜀」(ロウヲヱテシヨクヲノゾム)

ハ:「芳名勝冨貴」(ハウメイ、フウキニマサル)

ニ:「忍耐強者成大事」(ニンタイ、ツヨキモノダイジヲナス)

ホ:「與名譽寧勿謗」(ホマレ、アランヨリハムシロ、ソシリナカレ)

ヘ:「除弊者興利」(ヘイヲ、ノゾクモノハリヲヲコス)

ト:「時是金」(トキハ、コレカネ)

チ:「忠言逆於耳」(チウゲンミミニサカウ)

リ:「良薬苦於口」(リヤウヤククチニニガシ)

ヌ:「捕盗宜用盗」(ヌスビトヲ、トルニハヌスビトヲ、モチユベシ)

ル:「以類會友」(ルイヲモツテトモヲクワイス)

ヲ:「●[1]怠常友不幸」(ヲコタリハ、ツネニフカウヲ、トモトス)

ワ:「腕力法律敵」(ワンリヨクハ、ハウリツノ、テキナリ)

カ:「各人家其城」(カクジンノイエハソノシロナリ)

ヨ:「所能問人能學」(ヨクトウトコロノヒトハ、ヨクマナブ)

タ:「大器晩成」(タイキハバンセイス)

レ:「怜悧者首有閉口」(レイリシヤノ、カシラニハトヂタル、クチアリ)

ソ:「俗變性」(ゾクセイヲヘンズ)

ツ:「有恒産者必有恒心」(ツネノサン、アルモノハカナラス、ツネノコヽロアリ)

ネ:「佞奸巧者如忠直」(ネイカンノ、タクミナルモノチウチヨクノ、ゴトシ)

ナ:「去名者無憂」(ナヲサルモノハウレヒナシ)

ラ:「勞働者常友安寧」(ラウドウシヤハ、ツネニアンネイヲ、トモトス)

ム:「寧為鶏口勿為牛後」(ムシロ、ケイコウト、ナルトモギウゴト、ナルコトナカレ)

ウ;「見得思義」(ウルヲミテハギヲヲモヘ)

ヰ:「井中蛙天為小」(ヰノウチノ、カワズテンヲ、セウナリトス)

ノ:「望須大慾須小」(ノゾミハ、ダイナルベクヨクハ、セウナルベシ)

オ:「己所不欲勿施人」(オノレガ、ホツセザルトコロヒトニ、ホドコスコトナカレ)

ク:「徒費光陰無上奢侈」(クワウインヲ、トヒスルハムシヤウノ、シヤシ)

ヤ:「居安思危」(ヤスキニヰテアヤウキヲヲモヘ)

マ:「學而不思則罔」(マナンデ、ヲモワザレバスナハチ、アヤフシ)

ケ:「競争人世利」(ケウソウハ、ジンセイノリ)

フ:「腐木尚生菌」(フボク、ナヲキンヲシヨウズ)

コ:「困苦良師友」(コンクハ、リヤウシイウナリ)

エ:「榮辱千載得失一時」(エイジヨクハ、センザイトクシツハ、イチジ)

テ:「有天爵者必有人爵」(テンシヤク、アルモノハカナラズ、ジンシヤクアリ)

ア:「争論終一方堪忍」(アラソヒハ、イツポウノカンニンニ、ヲワル)

サ:「三人行必有我師」(サンニンヲコナヘバカナラズ、ワガシアリ)

キ:「見義不為無勇也」(ギヲミテ、セザルハイウナキナリ)

ユ:「幽為否善者顕受刑」(ユウニヒゼンヲ、ナスモノハゲンニ、ケイヲウク)

メ:「名譽極智識減」(メイヨ、キワマツテチシキ、ゲンズ)

ミ:「自作孼不可活」(ミヅカラ、ナセルワザワイハイクベカラズ)

シ:「書籍妄用殺學問」(シヨジヤクノ、モウヨウハガクモンヲ、コロス)

ヱ:「無遠謀有近憂」(エンボウ、ナキトキハキンイウアリ)

ヒ:「人先疑讒入之」(ヒトマヅ、ウタガツテザン、コレニイル)

モ:「物先腐虫生之」(モノマヅクチテムシ、コレニシヤウズ)

セ:「千金子不死盗賊手」(センキンノコハ、トウゾクノ、テニシセズ)

ス:「睡獅不如走狗」(スイシハソウクニ、シカズ)

以上の内容であり、まさに、和、漢、泰西の格言が混入されている。日本はしばしば、外国との接触の中で急激にその文化を輸入することがあり、飛鳥時代、奈良時代の唐の文化でも、安土桃山時代の南蛮の文化でも、幕末期(1854から68)から明治前期(1868~87)の開国に伴う西欧文化でも、第二次大戦後のアメリカ文化でも、津波の様に圧倒的な迫力で押し寄せる新着の文化に圧倒された。そこでは交易の経済的利益に裏打ちされて新着の海外文化に跪く集団転向が起きており、その反面として、古きものが、それが良いものか悪いものかに拘らず残酷なまでに捨て去られたことが多い。だが、このかるたは、一般人のレベルでは、そういう価値観の転換が容易でなかったことを示している。

私は作者である三重縣士族の吉田轍五郎という人物を知らない。奥付のわずかな情報から推察すれば、三重県の宇治山田市で、旧幕時代には山田奉行所に勤務していた侍であろう。山田奉行その人は紀伊藩の人事であり、和歌山藩の決定によって数年ごとに新任されて紀州から派遣され、任期を終えればまた紀州に戻されるのであるが、奉行所にはそれを支える伊勢生え抜きの部下、土着の侍もいたであろう。吉田はそういう中の一人ではなかろうか。そうだとすれば、幼少のころから漢籍の学習に励み、成績もよく無事に同家に世襲の奉行所の職を得て出仕し、職務柄、管内の伊勢神宮の関係で日本古来の文化や和歌の道にも詳しくなり、そして維新を迎えて圧倒的な西洋文化に触れることになる。漢、和、洋の教養が一身に集約されていたのであろう。吉田が面白いのは、そこで、古い封建の世の漢学も、激動の維新の国学も、文明開化の洋学も、その価値に上下はなく、等しいものとして受け入れていることである。「学びて思わざればすなわち危うし」(孔子)と「良薬口に苦し」(和諺)、そして「時はこれ金」(フランクリン)がともに人生の教訓となり、そこにさらに、「法律」とか「労働者」という出来立ての新語が「腕力は法律の敵なり」とか「労働者は常に安寧の友」という格言として加わる。十年後には社会主義協会や平民社などによって労働者は革命の友とされたのだから、「安寧の友」という新語の命は短かったが、左翼革命思想伝来以前の近代の姿がここに捉らえているのも面白い。そこでは、日本という国家へのこだわりはなく、宇治山田町の外は、和、漢、洋の哲学が入り乱れた世界と観念されている。そこから自分に有益なものを拾い集めればよい。この健全な自分中心主義に感動する。このかるたを読みながら脳裏に浮かぶのは、朝からシュウマイを食べ、味噌汁を飲みながらパンを楽しむ食卓の風景であり、そこには抹茶アイスクリームも添えられている。近代のかるた、カルタの文化はこういう思いがけない無国籍主義、あるいは多国籍主義に支えられていたことをこのかるたから知ることができるのである。吉田はその生い立ち、境遇が幸いしてこのような独自の文化受容を成し遂げたのだと思うが、政治体制が推進した建て前としての東洋文化の唾棄、西欧化一辺倒の政策とは一味違う、草の根の市民の意識レベルでの開国と近代化がとりわけ興味を引く。

なお、三重県では、十年前の明治十四年(1881)に、「西諺以呂波譬カルタ」が刊行されている。これは、「伊:一桃(いつたう)腐敗(ふはい)シテ百(ひやく)桃ヲ損(そん)ス」、「呂:羅馬(ろうま)ノ府(ふ)ハ一朝(いつてう)ノ造營(そうえい)ニアラズ」など、「西籍中ニ散見スル古諺」を「イロハノ次第ニ由リテ列載スルモノ」であり、小学児童向けに考案された。私は、これが実際にどの程度普及したものであるか知らない。編者の三重県安濃郡津京口町三拾四番地寓居の三重縣士族小林鉀三郎がどのような人物であるのか、「和漢泰西先哲格言以呂波骨牌」の編者、吉田轍五郎とどのような関係があるのかも知らない。かるたそのものも実見したことがなく、冊子の形で国会図書館に収蔵されているものに接しただけなのに三重県つながりで興味があるというだけで、無責任の自責もあるが、参考のために記しておきたい。

 


[1] 立心偏に鮮、懈の異字。