さて、こんな言い合いをいくら続けてもあまり意味はなかろう。要するに、一枚の版画が、図像そのものを見る私には合せカルタ遊技の場面に見え、周辺情報で理解する研究室には説明文の言う「よみがるた」は無条件に「読みカルタ」遊技を言うと理解され、したがって図像は「読みカルタ」の遊技場面に見えるというだけのことである。

私が言いたいのは、史料の文字情報を信頼しきって歴史をそこから構築する文献史学も結構だけど、史料の記載を丸のみに信じてそれが史実だとするのではなく、絵画史料、物品史料、そして残されているカルタ札そのものをよく見て、その語るところを虚心坦懐、偏見抜きに聴くべきである、ということである。以前に合せカルタを検討した際に使った言葉をここでも使わせてもらえば、絵画史料を見るときには、まずは作品を素直に見て、作者の作品に取り組んだ主旨を素直に理解することが大事ということになる。『繪本池の蛙』の絵画も、素直に見れば、遊技者の膝下にある裏面を上にした札の塊が、三、四枚の描写なのに十二枚の落絵の塊に見えることはないだろうし、江戸時代初期以来、読みカルタの遊技場面の図像では場に散らされた札の枚数は六、七枚、多くの場合に、遊技参加者の数よりも多く描かれているのに、この図に限って四人参加しているのに二枚しか描かれていないものを、同じ読みカルタ遊技の場面と思うこともなかったであろうし、その不適合さをカバーしようとして遊技開始直後の場面だと見るから、今度は各人の手札の数が少なすぎて理屈に合わなくなる。結局は、この図の作者は適当な枚数しか描かなかったのであってリアリティに欠けるのはやむを得ないというまとめになってしまう。西川祐信に失礼な話である。上部に「よみがるた」と書いてあるからこれは読みカルタ遊技の場面だとか、宮武外骨がカルタ遊技の図と紹介しているのだから読みカルタ遊技の場面なのだとか、いつもいい加減なことを言う江橋が合せカルタ遊技の場面というから酷評して文字通り読みカルタ遊技の場面であると教えてやろうなどとか、周辺情報に振り回されて絵画を見るのではなく、素直に見ることが大事なのである。

もう一つ、私は、文献史学の人にも謙虚さが必要だと思う。文献史料を謙虚に読むことが望まれるのであるが、あわせて、文献史料に関する先人の研究業績も謙虚に学ぶ必要がある。そのことを伝えるために、一例を紹介しておく。

私は、ここまで、『繪本池の蛙』に関する先行研究は存在せず、一人で奮闘してきたように書いてきたが、実は、ここまでは議論が複雑になることを恐れて伏せておいたが、『繪本池の蛙』に正面から対峙して研究した先人がいる。古川柳研究者として高名な山路閑古、本名萩原時夫である。ここで山路の研究を紹介することで、文献史学にも尊敬するべき先人がいることを示し、後学の者への道の教えとさせていただこう。

山路は、昭和二十二年(1947)に、日本古川柳学会の学会誌『古川柳』に、「めくりかるた考」[1]という論文を発表した。昭和前期までは、カルタ史はまったく特殊な研究領域であって、ほとんどの者が先人のわずかな研究業績を丸写しするような議論しかしていなかった時期であるし、敗戦後の社会的な混乱の中で何かと研究環境の不備、不足も多かったであろう中で、(一)から(四)までの連載で述べた気迫、先人の業績を素直に読み謙虚に活用する姿は、一読して感動的であった。

山路は、実はめくりカルタ札の実際を見たことがなかったようである。したがって山路は、文献の研究に謙虚に取り組んだ。その際に山路が依拠したのは、史料では『博奕仕方風聞書』、『博技犀照』、『和漢三才圖會』、文献では、宮武外骨『賭博史』、尾佐竹猛『賭博と掏摸の研究』、新村出『南蛮更紗』、岡田朝太郎『寛政改革と柳樽の改版』である。古川柳研究は文献史料を扱う研究領域であり、そういう学界での研究手法が生かされている。そして、この論文の(三)で、『繪本池の蛙』のこのページの狂歌を引用して次のように書いている。

「この二子、三子といふのは、賽ころの數から來たもので、「五雑俎」に「其用有五子四子三子之異、視古法彌簡矣」などゝある、それからかういふ文字を用ゐてゐる。二個三個と同じ事である。

古の狂歌の意味は、にこゝゝと三個にならんばかりの上機嫌は――二個が三個になるかと思はれるばかり、にこゝゝ笑つたと云ふ洒落である――前の番の者が場札をめくり起して「青二」が出た瞬間、次の者が、待ち構へてゐたやうに「丸二」を合せて、一擧百點をせしめたからであると云ふのである。「二」と「二」と合せて獲るのは、「花札」で「梅」と「梅」と合せるのと同じである。

(中略)

右の繪本の挿畫を見ると「場」には「青二」が置かれてあり、一人の女が「太鼓二」の札を出して合せようとしてゐるところが描かれてゐる。この繪で見ても、「青二」はいかにも「芋洗ひ棒」のやうな形をしてゐる。

(中略)

因みに右の狂歌二つ、及び「万句合」の二句は、製作年代の明瞭な例として挿入した。何れも明和以前のもので、當時は「めくりかるた」といふ言葉はなく、すべて「よみかるた」であつた譯である。けれども札の名稱も、役の構成も、打ち方も「めくりかるた」と少しも變らないやうに思はれる。よつて両者は名稱は變つてゐても、内容は殆ど變つてゐないものと考へてよいかと思ふ。」[2]

こうした山路の指摘は、今日の研究水準から見れば問題だらけの、まさに『うんすんかるた』登場以前のレベルであるが、それにも関わらず大事なのは、文献史料に接する際の研究者の姿勢についてゆるぎなく教えてくれていることである。山路は、本名萩原時夫として、化学者の仕事をこなす一方で、難解な江戸古川柳の研究に勤しみ、多くの論考を物にし、また、この研究世界をリードしていた。科学者らしく研究データには謙虚に接し、データの語るところに耳を傾け、偏見も先入観も持たずに古川柳の作品に接し、カルタの文献史料に接する山路の研究姿勢には今日でもなお学ぶべき面がある。

山路は『繪本池の蛙』の図像を素直に見て、それが読みカルタの遊技の場面ではないことを知った。それならばこれは何というカルタ遊技の場面なのか。山路は、持てる知識を総動員して、これはほとんどめくりカルタ遊技であるが、当時はまだそれは考案されていなかった時期なのだから、読みカルタと言うことになり、そうすると、読みカルタの遊技法は案外めくりカルタのそれに近かったのだろうか、という、なんとも締まらない結論に至っている。「読みカルタ」遊技では場札をめくるなどという展開は全く存在しないのであるから、山路の理解によってもこれが「読みカルタ」遊技の場面ではないことは明らかであるのに、「めくりカルタ」は誕生以前だし、「合せカルタ」遊技を知らない山路には適切な遊技法が思い浮かばないので、無理やり、「めくりカルタ」に塩梅近い、めくる札がある「読みカルタ」遊技という訳の分からない説明に帰してしまっている。これを後学者が笑うことはいくらでもできる。だが私はそうはしない。

『繪本池の蛙』に関する私の説明にも危ういところは残る。手札が各人五枚ずつであるべきところ、右側の男では手札は四枚しか描かれていない。私は、一枚程度の誤差は描くときの都合で普通にあると思うけど、研究室の枚数の数え違いを細かく指摘している身としては、大勢に影響はないとしても自分に甘いようでやや気が引ける。それに、文献史学にも意味が全くないわけではない。この絵画の場合でも、それが合せカルタの遊技図だとすると、『繪本池の蛙』刊行の延享四年(1747)という遅い時期まで、こんな古風な遊技法を、いったいどこの遊郭で遊び続けていたのだろうかという実体的な疑問が残る。あるいは、私が知らないだけで、江戸時代中期(1704~89)になっても古風な合せカルタの遊技があちこちでまだ続いていたのだろうか。これは私が自身に突き付けている未解明の問題点である。

私は、もし、山路に直接に接する機会があれば、お互いに、素直に、そして謙虚に、自分の抱える疑問を述べて、議論をしてみたかったと思う。「合せカルタ」の遊技法について教えれば、山路とは意外と簡単に共通の理解に達することができたのではないかと思う。逆に、私の抱える疑問点についても議論の中から鮮明な歴史像が得られたのではなかろうか。絵画そのものを素直に見るところから研究を始める点で志を共にしている山路は、私にとって敬愛する先人の一人であり、同志である。研究室も、文献史料を文字通りに眺めるのではなく、これを機会に文字通りではなく画像通りに理解する先人の仕事ぶりから謙虚に学ぶ手法を身に着けてほしいと思う。


[1] 山路閑古「めくりかるた考(一)~(四)」『古川柳』第一巻第四号~第九号、日本古川柳学会、昭和二十二年。

[2] 山路閑古「めくりかるた考(三)」『古川柳』第一巻第八号、五頁。

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