江戸時代中期(1704~89)、後期(1789~1854)の百人一首かるた遊技の盛衰を扱う上で外せないのが、歌貝(續松)遊技の衰退である。これは、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)には百人一首かるた遊技の最も人気のある遊技法の一つであったのに、江戸時代中期(1704~89)に消えていった。その後、江戸時代後期(1789~1854)の文献史料に登場する百人一首かるた遊技図は、押しなべて、読み手がいて、札が畳の上に散らされているものである。

この遊技法の衰退は、江戸時代中期後半(1745~89)以降のことと思われるが、それならば、それ以前、江戸時代中期前半(1704~45)以前の歌貝(續松)の盛んな流行を示す史料はどこにあるのかと言えば、残念なことにこれまであまり多くは発見されていなかった。もちろん、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の文字札の歌合せかるたは歌貝(續松)遊技に使用されていたのであるから、この時代の文字かるたは歌貝(續松)遊技用品であったといえる。とくに、福岡県柳川市のお花や大牟田市の三池カルタ・歴史資料館にある将棋駒型百人一首かるたはその形状からして明らかに歌貝(續松)の遊技仕様であるし、同じく三池カルタ・歴史資料館にある蛤貝型源氏物語歌合せかるたもこの遊技仕様のものであるが、色紙型ないし長方形の百人一首かるたについては今一つ明確なことが言えない。ところが、ごく最近、歌貝(續夏)仕様の物品史料の発見があった。長方形で、上の句札、下の句札に風景図があって、二枚を合せると、上部に一首の和歌が現れ、下部にその和歌の歌意を表す一幅の絵画が現れるという、まさに歌貝(續松)仕様の百人一首歌かるた札である。

吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた・収納箱  (制作者不明、江戸時代前期)
吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた・収納箱
(制作者不明、江戸時代前期)

明治年間(1868~1912)に開業した名古屋市内の材木商の家系である吉田豊子氏は、自家に残されていた百人一首かるたにつき、遺言で、私に研究を委託したうえで、福岡県大牟田市立三池カルタ・歴史資料館に寄贈して公共の役に立てることを希望された。平成三十一年(2019)1月に夫のハンス・ブリンクマン氏がその実施を求めて私に寄託された。したがってここでは、このかるたを「吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた」(以下、「吉田家旧蔵かるた」)と呼ぶ。吉田家に伝来する以前の経緯については不明である。

かるたは、手描き、手作りで、縦八・三センチ、横五・四センチの札が百九十九枚残されている。欠けているのは、崇徳院の上の句札一枚である。表紙(おもてがみ)、裏紙共に銀色紙で、縁返し(へりかえし)の様式で制作されている。収納されている箱は、縦十七・四センチ、横十二・四センチ、高さ十五・五センチの優美な木箱で、全面が黒漆塗り、縁の部分は金漆である。上蓋、底箱共に無地で、模様や文字は存在しない。箱の内部は中央で二つに仕切られており、その空間は縦十・三センチ、横七・三センチである。また、箱の中に、同じサイズで厚みが〇・四センチの黒漆塗りの小木片が四枚ある。このような収納箱のサイズと札のサイズはアンバランスで、かるた制作当時の元箱とは思われない。何らかの事情があって入替がなされたのであろう

吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた (制 作者不明、江戸時代前期) 右最上段より縦に、 小野小町、伊勢、 坂上是則、紀貫之、恵慶法師、  能因法師、権中納言定家、後鳥羽院。
吉田家旧蔵百人一首歌合せかるた
(制 作者不明、江戸時代前期)
右最上段より縦に、 小野小町、
伊勢、 坂上是則、紀貫之、
恵慶法師、 能因法師、
権中納言定家、後鳥羽院。

このかるたの最大の特徴は、上の句札、下の句札に肉筆で歌意図が描かれていることである。歌合せかるたは江戸時代初期(1603~52)に始まったが、当初は正方形の小型色紙二枚に上の句と下の句を分ち書きした文字だけの遊技具であり、それが、このかるた遊技が流行した江戸時代前期(1652~1704)には、形が長方形になり、源氏物語歌合せかるたであれ、伊勢物語歌合せかるたであれ、採録された和歌の内容に即した挿絵を下の句札一枚ないし上の句札と下の句札二枚の下半分に加えるものが生じた。一方、百人一首かるたの場合は、上の句札の下半分に歌人像を描き、下の句札には図像を加えない様式が標準となり、歌意図が掲載されるものはほとんどなかった。ただ、同時期に始まった百人一首の解説書、刊本では、説明文に合わせてその頁に挿絵として歌人像が描かれ、さらに歌意図までを加えるものが生じた。そして、江戸時代中期(1704~89)になると、例外的にではあるが、尾形光琳作の百人一首かるたのように、上の句札には歌人絵、下の句札には歌意図を配するかるたも生じた。だが、いずれにせよ、百人一首かるたでは、札に図像を加えるときは歌人像を描くのが必須であり、歌人像抜きに歌意図だけを描いたものはこれまでは知られていない。

ところが、この吉田家旧蔵かるたでは、上の句札にも、下の句札にも歌意図があり、しかもそれは、一対二枚の札を横にならべると一幅の絵画になるという芸術的な仕組みである。試みに、何枚かの札を見てみたい。

吉田家旧蔵かるた・天智天皇等四種  (制 作者不明、江戸時代前期) 右上より縦に、 天智天 皇、 山邊赤人、猿丸太夫、蝉丸。
吉田家旧蔵かるた・天智天皇等四種
(制 作者不明、江戸時代前期)
右上より縦に、 天智天 皇、 山邊赤人、
猿丸太夫、蝉丸。

歌番一番の「天智天皇」の札には、右札に上の句「秌(あき)の田のかりほの庵のとまをあらみ」、左札に下の句「我衣手は露にぬれつゝ」があり、左右の札を合わせて刈入れ後の田に散開する稲束、小屋と松の枝に掛けられた稲束の風景が描かれている。歌番四番の「山邊赤人」の札では、右札に「田子の浦にうち出てみれば白妙の」と田子浦の海岸風景、左札に「ふしの高ねに雪は降つゝ」と雪をかぶった富士山の絵である。歌番四番の「猿丸太夫」では「おく山に紅葉ふみ分なく鹿の」と「こゑ聞時そ秋はかなしき」で、二枚の札の下半分には一面に紅葉の山が描かれ、奥に雌雄の鹿が大きめに描かれている。歌番十番の「蝉丸」では、「是やこの行もかへるも別れては」「しるもしらぬもあふ坂の関」で、右札の下半分を中心に山の中の関所の扉がある。

これは、長い間探していた歌貝(續松)仕様の百人一首歌かるたではないか。これが以前にこのかるたを最初に見たときの直感である。そうだとすると、これまで発見されたことのない様式の新出史料であり、極めて貴重で、史料価値が高い。今回、こうして公開して情報を開示する機会を得たことに感激している。

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