歌集『百人一首』誕生の謎 歌集『百人一首』誕生の謎 右:『百人秀歌』(『百人一首への招待』)、左:『百人一首』(『別冊太陽愛蔵版』) はじめに:『藤原定家「明月記」の世界』の刊行に触発されて 一 『百人一首』発祥論への疑問 二 「持統天皇」と「持綩天皇」という表記の差異が示すもの 三 『百人一首』を歌集と理解した場合の問題点 四 公家、藤原定家の「家記」と「家歌記」への執念 五 小倉色紙の登場 六 定家が添削して編纂した、自家の秘密教材たる百首の「歌群」 七 後鳥羽院との絶縁を表明する定家 八 『小倉百人一首』は後世に二條流が制作した歌集 おわりに
一 第二次大戦敗戦後の社会とかるた (二)「骨牌税法」の整備、「風俗営業法」の制定 こうしたかるた業界の動きをコントロールしたのは骨牌税法であった。昭和二十年(1945)八月の敗戦時には一組三円の税額であったものを、昭和二十...
5-1 江戸時代初期、「歌合せかるた」の成立 四 歌合せかるたの「貝覆」起源説 このように、「しうかく院」考案説が少しずつではあれ関連資料の発掘、研究で前進してきたのに対して、それ以前に通説であった、江戸時代初期、前期(...
四 戦後期社会の完結とカルタ遊技 (二)主要なカルタ屋の動向 昭和後期の高度経済成長期は、日本の花札市場で最後のブームの時期であり、昭和三十年(1955)当時は一年に一百万組程度の出荷であったものが、八...
1-2 鎖国日本への来訪者が見た日本のカルタ 六 フィッセル(Johan Frederik van Overmeer Fisscher) ブロンホフに次いで日本の文化をヨーロッパに紹介したのはオランダ商館員でブロンホフの部下であったヨハン・フレデリク・ファン・オーフェルメール・...
三 ポルトガルのカルタの遊技法 (四)「松浦屏風」のカルタ遊技図像の解析 しかし、問題はむしろこの外にある。まず、京都においては、慶長年間(1596~1615)にはカルタ遊技はまだ新奇な遊技であり、公家の中院通村が...