歌集『百人一首』誕生の謎 歌集『百人一首』誕生の謎 右:『百人秀歌』(『百人一首への招待』)、左:『百人一首』(『別冊太陽愛蔵版』) はじめに:『藤原定家「明月記」の世界』の刊行に触発されて 一 『百人一首』発祥論への疑問 二 「持統天皇」と「持綩天皇」という表記の差異が示すもの 三 『百人一首』を歌集と理解した場合の問題点 四 公家、藤原定家の「家記」と「家歌記」への執念 五 小倉色紙の登場 六 定家が添削して編纂した、自家の秘密教材たる百首の「歌群」 七 後鳥羽院との絶縁を表明する定家 八 『小倉百人一首』は後世に二條流が制作した歌集 おわりに
四 「三池カルタ」の復元 (二)復元カルタのデザインの推定 まっさきに問題になったのが、カルタのデザインである。なにしろ、「三池カルタ」は残存するものがなく、わずかに兵庫県芦屋市の滴翠美術館に「三池住...
四 戦後期社会の完結とカルタ遊技 (一)かるた業界の変貌 昭和後期のかるた業界では、何社かの新規参入も含めて、さまざまな革新が試みられた。まず、基礎的なデータとして、この時期のカルタ屋を見ておこう。...
6-3 開国後の日本で外国人の眼に映じた日本のカルタ 五 エドワード・シルヴェスター・モース エドワード・シルヴェスター・モース エドワード・シルヴェスター・モース(Edward Sylvester Morse)は明治十年代(1877...