さてそれでは、以上のような百人一首起源論での読書遍歴が、私の本業である百人一首かるた史の研究にどのように跳ね返ってきたのだろうか。そのことを語ろう。
1まず、【表一】は、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の百人一首かるたにおける歌人名、和歌本文表記の揺れを示すものである。この一覧表の原型は昭和六十年(1985)ころに作成したが、ここでは、平成十六年(2004)に有吉保が初公開した「笹竹上藤紋散し蒔絵箱入りうたかるた」(以下、「大上り藤紋かるた」)などを補充した最新版を提示している。
これを一見すれば分かるように、この時期の百人一首かるたの表記は、冷泉家流の表記を採る「道勝法親王筆かるた」「同志社蔵かるた」「古型中級品かるた」「時雨殿蔵かるた」「大上り藤紋かるた」「尾形光琳筆画かるた」のグループと、二條家流の表記を採る「同志社蔵丹緑絵かるた」「近衛家旧蔵かるた」「浄行院かるた」「持明院基時筆かるた」に明瞭に二分される。前者のグループは冷泉家流の表記を採った『素庵本』ないし『尊圓本』を手本にしており、後者のグループは、二條家流の表記を採った『百人一首像讃抄』を手本にしていると思われる。従って、前者は江戸時代初期(1603~52)から前期前半(1652~81)と古く、後者は『百人一首像讃抄』が刊行されて普及した天和、貞享年間(1681~88)以降、主として元禄年間(1688~1704)のもので、前者に比べれば一時期分、新しいように見えるが、天和、貞享年間(1681~88)以降でもかるた屋の考え方で『素庵本』ないし『尊圓本』を手本にして制作し続けている場合もありうるので、下限の年代については確かなことは言えない。
なお、「諸卿寄合書かるた」は、歌人図像は土佐派の緻密な図像であり、江戸時代初期(1603~52)を思わせるものがあるが、文字の表記では、後者の二條家流表記のグループに共通するものもある。このかるたは、宮中の宴席で公家二十人に歌人座像のあるかるた札を配布して、その場での公家本人の揮毫を求めて制作されたものと推測されるが、その際に、個々の公家の中には、宮中で正統とされている二條家流の表記を好んだ者がいて、主催者の思惑に反して二條家流で書いてしまった部分があるということであろう。例えば、「中納言敦忠」を割り当てられた担当の公家は「権中納言匡房」と書いたので、後に別人の筆で「権」の字に「さき」という読み仮名が付されている。こうすれば「権」は「前」の書き間違いということで処理できる。また、「前大僧正行尊」を担当した公卿が「大僧正行尊」としか書かなかったので、後筆で「前」が加えられて「前大僧正行尊」に修正されている。だからこのかるたは、時期的には前者の『素庵本』に依拠していたグループに属するが、揮毫した者の考えから表記に乱れが生じて宴席の主催者が修正したものと判断される。
そして、かるた史としてみれば、後者のグループのかるたが制作された元禄年間(1688~1704)も終わりの頃から江戸時代中期(1704~89)にかけてであろうか、今日まで続くいわゆる標準型の表記のかるたが登場して優勢になる。それは宮中で通用している二條家流の表記であり、細川幽斎、中院通勝、菱川師宣が関係して出版された『百人一首像讃抄』の影響が大きい。なお、五代将軍綱吉が甲府宰相であった時期に婚姻し、後に綱吉の正室として江戸城に入った「浄光院(かるたでは浄行院)」、鷹司信子の遺品のかるたが京都の宮中での表記、つまり二條家流であることは甚だ興味深い。ただし、江戸城の大奥で二條家流の表記のかるたが遊ばれていたことと、江戸市中で二條家流に準じた標準型の表記のかるたが盛んになったこととの関係は分からない。
これが、細かい点にはいろいろ問題はあるが、百人一首かるた史の大筋の流れであることは確かである。そして、このことこそ、昭和五十九年(1984)に着想を得て、翌昭和六十年(1985)ころに確信に至った、私の発見したポイントでもある。ただ、このように表記するといかにも偉そうであるが、実際には、かるたの展覧会の準備として、新たに入手した「諸卿寄合書かるた」を点検していて崇徳院の札に畳の描写がないことに気付き、最初は欠陥品かと落胆したが、「道勝法親王筆かるた」と「浄行院かるた」を見て、それ等のかるたでも崇徳院には繧繝縁(うんげんべり)の畳がないことに気付き、大変驚いたものの何が生じていたのか理解できなくてうろたえて、山口格太郎に相談したところから始まった研究であるから、あまり自慢にはならない。そして、これらの崇徳院のかるた札での身分に合わない畳の描写は、刊本の『素庵本』に由来する構造的な特徴であることを突き止めたが、これとても、山口からこの書のことを教えられ、東洋文庫に出かけて手にしたのが初見であったのだから偉そうなことは言えない。
なお、【表一】に、参考までに賭博遊技用の百人一首かるたである「むべ山かるた」の表記を付けておいた。奇妙なことに、このかるたでの表記は一番古い冷泉家流タイプのかるた札の表記に近い。ただ、江戸時代前期(1652~1704)に既に「むべ山かるた」ができていたとする記録は一切存在しないし、他の史料からすると、早くても江戸時代中期(1704~89)の発祥と思われる。この時期に、大坂のかるた屋が、なぜ、このように古風な表記を採用したのかは分からない。
2続いて【表二】であるが、これは百人一首の歌集、注釈書、画帖における歌人名、和歌本文表記の揺れを示すものである。これは私の読書遍歴の成果である。一見して分かるように、鎌倉時代、室町時代には、いわゆる「為家本百人一首」の表記が、二條家流の流派に連綿として継受されていたことが分かる。宮内庁書陵部蔵の『小椋山庄色紙和歌』(いわゆる二条満基(みつもと)『応永百人一首抄』)には、「此歌は家に口伝する事にて」「此うちある(或)は譜代、ある(或)は歌のめでたき、ある(或)は徳有人の歌」が含まれており、「此百首は二條の家の骨目(「骨肉」とするものもある)也」とされており、二條家が藤原定家の正統な後継者であると誇示するツールになっている。そしてこれが、三條西実隆(さねたか)、細川幽斎(ゆうさい)、中院通村(みちむら)を経て江戸時代初期(1603~52)の後水尾朝廷に伝わっていた。そこでは、何やら秘儀めいた設えで、百人一首伝授が行われていた。そして、公家社会では、近衛家、九條家などが二條家流に従っており、それが歌道での二條家への引け目にならないように、細川家が「歌学の祖」と持ち上げられ、自家は二條派というよりは細川幽斎一門であるという自己認識になった。
こうした二條家流表記の支配の構図に波乱が起きたのは、世阿弥光悦の刊本『古活字本百人一首』の出版にあった。【表二】に露わなように、光悦は、民間に眠っていた冷泉家流の表記、つまりは百人一首の元と言われた『百人秀歌』の表記を採用したのである。この書の影響は二條家流表記の優位を脅かす破壊的な社会的風潮をもたらし、かるたに縁が深いものでは『素庵本』、『尊圓本』、菱川師宣(もろのぶ)の『小倉山百人一首』、広く社会に普及した絵入り注釈書では『百人一首大成』、著名な書家が筆を染めたものでは、光悦と並ぶ「寛永の三筆」の一人、松花堂昭乗(しょうじょう)、小堀遠州(えんしゅう)の作品、そして絵師の狩野探幽(たんゆう)の画帖などまでが皆こぞって光悦に従った。こうした光悦ブームのさなかに発祥した百人一首かるたが、冷泉家流の表記を採用したのは至極当たり前のことである。
しかし、百人一首かるたは光悦本そのものを写して作成されたものではない。そうではなく、それは『素庵本』を手本にして成立している。その事情を明らかにしているのが二条院讃岐の和歌の表記である。この和歌は、百人秀歌に由来する表記、つまりは冷泉家流の百人一首の表記でも、また、為家(ためいえ)本以下の二條家流の表記でも、頓阿本以外は「わが袖は」であった。ところが、光悦『古活字本』はこれを「我恋は」と表記したので、それ以降、『尊圓本』も『師宣本』も、『大成本』も皆これに倣い、狩野安信の画帖までこの表記に従って「我恋は」になった。光悦『古活字本』の強い影響力が分かる。だが、こうした「わが恋」表記の流行にもかかわらず、百人一首かるたでは例外なく「わが袖は」という表記であり、「わが恋は」とした例は知られていない。これは、この時期のかるたが、『光悦古活字本』ではなく、同系統の『素庵本』の方を手本にしたからである。素庵は、歌人名や和歌本文の表記については光悦に同調したのに、この「我恋は」の表記に関しては光悦に同意せず、「我袖は」と表記した。そういう『素庵本』を手本にしたので、かるたでは「我袖は」か「わが袖は」という表記になったのである。
このことから、かるた屋が、『素案本』を手本にしたことが分かる。そしてもう一冊のかるた屋の手本である『尊圓本』の場合は、「我(わが)恋(こひ)は」としつつもその横に「袖(そで)とも」と併記してあり、かるた屋は「我袖は」の方を選んだのである。一方で、もう一つの潮流である二條家流では、よく分からない『頓阿抄』での表記は稀な例外で、その他の諸本では、『幽斎抄』がそうであるように、「我袖は」であるので、結局、百人一首かるたでは、冷泉家流の表記でも二條家流の表記でも、「わが袖は」で一致していた。
ところで、光悦ブームに沸く当時の京都には、もちろん、このブームと異なる動きがあった。細川幽斎(ゆうさい)は、歌学の祖とされ、『幽斎抄』などは二條家流の表記であり、中院通村(みちむら)、後水尾天皇らもこれであった。公家でも近衛家はこれに近く、「寛永の三筆」の一人、近衛信尹(のぶただ)は二條家流であり、近衛家旧蔵の百人一首かるたまでが二條家流の表記であるが、これは同家の主張というよりも、単に同家に古い時期のものが残っていなくて、世間の百人一首かるたの表記が皆二條家流に揃ってきた比較的に新しい時期のものしか残っていないということなのかもしれない。なお、狩野探幽(たんゆう)は冷泉家流の表記であったが、同じ江戸狩野派でも、探幽の弟子の狩野安信(やすのぶ)の描いた画帖では、二條家流の表記が取られている。そして、北村季吟(きぎん)の『百人一首拾穂抄』も二條家流であり、貞享年間(1684~88)以降には和歌の道の最高権威の書として大きな影響力を発揮した。また、微妙なのは菱川師宣(もろのぶ)である。師宣(もろのぶ)は、『百人一首像讃抄』に歌人図像を提供した関係で、細川幽斎(ゆうさい)、中院道勝(みちかつ)らとも親交があり、二條家流の表記をよく知っていたであろうし、『百人一首像讃抄』はそういう表記なのに、延宝八年(1680)の『小倉山百人一首』では、冷泉家流の表記である。ただ、これには特殊な事情があった。この書の版元、江戸日本橋の「本問屋」は、歌人図像については師宣の革新的なものを採用したが、文字表記においては、『尊圓本』の表記をそのまま写し取ることとした。その『尊圓本』が冷泉家流の表記であったので、それがそのまま『小倉山百人一首』に残ったということである。だからそれを師宣の主張とすることはできないし、また版元にどれほどのアンチ二條家流の思いがあったのかは分からない。
こういう事情が推察される中で、かるた史の立場から和歌史のプロに期待したのは、繰り返して書くが、世阿弥光悦はなぜ、後水尾朝廷で正統とされていた二條家流の『百人一首』の表記を避けて、冷泉家流の『小倉山荘色紙和歌』の表記を採用したのかという点についての、和歌史としての解明である。これはすなわち、光悦らが初めて歌人図像付きの百人一首画帖を刊本として刊行したときに、その初発の魂はどこにあったのかを明らかにすることである。これは、和歌史の研究にとっても、江戸時代初期(1603~52)における歌仙絵受容の在り方という重要な研究テーマであったはずである。だが、既成の和歌史研究者からは何の応答もなかった。素人からの問題提起に応えることができず、沈黙を守り続ける和歌史の専門家も大したことはないという印象が生まれる。
3【表三】は百人一首の刊本、かるたでの歌人図像の描き方の比較である。いずれも江戸時代初期(1603~52)、『素庵本』刊行以降の話であるので、鎌倉時代の百人一首という歌集の誕生に関する論議とは無関係であるかもしれないが、私としては、ここが最も中心的な関心事である。
この表では、まず、第一の基準として、崇徳院の皇族扱いを否定しているか、肯定しているかの違いに注目した。前者には、『素庵本』に由来する無畳のものと、『尊圓本』に由来する高麗縁の畳とがあるが、いずれの場合も、皇族扱いを拒否して公家などと同列の扱いにしている点は共通している。これに対して後者は、『百人一首大成全』、『百人一首像讃抄』『師宣本』などの刊行が相次いだことから生じた流れであり、これを模倣したかるたでは、皇族を表す繧繝縁(うんげんべり)の畳が描かれるが、皇族の茵(しとね)が描かれた。繧繝縁(うんげんべり)の畳の上にさらに茵(しとね)を重ねて描くこともあった。したがって、この基準を用いれば、百人一首かるたが『素庵本』以降のものか、『尊圓本』以降のものか、それとも『師宣本』以降のものであるのかが判明するのである。
これに加えて、第二の基準として、在原業平(なりひら)と参議等(ひとし)の入れ替わりを用いた。刊本でもかるたでも、業平(なりひら)も等(ひとし)も武官姿で描かれるが、『素庵本』では両者ともに左を向いていてよく似ているが、業平(なりひら)は右手であごひげに触れており、等(ひとし)は両手とも下に向けている点で決定的に区別される。ところが、『尊圓本』では、両者が入れ替わり、業平(なりひら)は右を向いて両手を下げた姿になり、等(ひとし)は左を向いて右手であごひげに触っている。つまり、業平(なりひら)が等(ひとし)に成り代わり、等(ひとし)が業平(なりひら)に成り代わったのである。こういう経過を理解して百人一首かるたのこの両者の図像を見れば、『素庵本』以降のものか、『尊圓本』以降のものかが区別できるのである。この逆転、入れ替わりが生じた原因は分からないが、刊本の制作工程を考えれば、まず各ページの歌人像が描かれ、次に残された画面上の空間に歌人名と和歌本文を書くのであるから、絵師の手からかるた屋を経て書家の手に渡る間に入れ替わりのミスが生じたのか、あるいは書家の手元にあった時のミスであったのであろう。いずれにせよ、この点は機械的なミスであり、『素庵本』系と『尊圓本』系でくっきりと分かれるので識別の基準として有効である。
第三の基準は、天智天皇、持統天皇の歌人図像である。これは、【表三】を見れば一目で分かるように、一貫して天智天皇は右向きの座像、持統天皇は右向きの座像で几帳が配されているのだから、基準として機能しないように思える。だが、狩野探幽(たんゆう)の画帖では、天智天皇は立像、持統天皇は御簾が下ろされて姿が見えなくなっている。持統天皇像については、狩野安信(やすのぶ)の画帖でも御簾隠れが採用されている。探幽(たんゆう)は、天智天皇、持統天皇に対する敬意を最大限に表して両帝の生存当時の姿で描こうと試みており、そうした画像の特異性を知ることができる。こうした探幽(たんゆう)の試みのうち、天智天皇の立像は不人気だったのか追随する者がなく、探幽(たんゆう)自身も座像に戻したので立ち消えになったが、持統天皇の御簾隠れ像はその後も断続的に踏襲する者が出て、最後は昭和前期(1926~45)、戦時中の御簾隠れかるたにまで及んでいる。
第四の基準は女性歌人の図像である。赤染衛門、祐子内親王家紀伊、待賢門院堀河には繧繝縁(うんげんべり)が描かれて皇族扱いになっているものがあるのでこれも基準としたが、よく見ると、初期の刊本やかるたではそういう間違いが散見されるが、『師宣本』によって座席の誤りが厳しく批判された頃からは間違いが解消されていることが分かる。したがって、これは大きく見ればそのかるたが『師宣本』以前のものか、以後のものかの識別の基準になる。
こうして、この【表三】を作成してみて、江戸時代初期(1603~52)、前期(1652~1704)の歌人図像の変化がよく理解できた。逆に、時代不明の古めいたかるた札の鑑定でも大いに役立つ基準の情報になっている。従来の和歌史の研究者は、滴翠美術館蔵の「道勝法親王筆百人一首かるた」が慶長、元和年間(1596~1624)の作であるという江戸時代後期(1789~1854)に作られた神話を疑うことができなかったことも相まって、身近なコレクションのかるた札を不当に古く評価して、ひどいときには安土・桃山時代の作などと鑑定してきたが、この表に当てはめればその虚構は崩壊する。
私は、歌仙絵史の素人であったので、自分では判断が付かず、土佐派の絵師は、光悦の依頼に応じて「三十六歌仙」の歌人図像付き木版画帖の制作に協力し、さらに、角倉素庵の提案に応じて「百人一首」の歌人図像を提供しているが、それはなぜなのか、このことを歌仙絵の歴史の研究者に説明してほしかった。その際にはもちろん、土佐派の絵師は、なぜ、天智天皇、陽成院、崇徳院は「三十六歌仙」の業兼(なりかね)本の大中臣頼基(よりもと)図像の模写で、また光孝天皇、三條院、後鳥羽院、順徳院は源公忠(きみただ)図像の模写で済ませて、同一人物のクローンのような天皇図像を量産して事足れりとしたのか、その理由の解析も欲しかったし、これまで何度も言及してきたので今更いうまでもないのだが、なぜ崇徳院から繧繝縁(うんげんべり)の畳を削除して非皇族扱いにしたのかも説明してほしかった。この点については、歌仙絵史研究者からは応答がなく、論文中での言及もなく、別世界での出来事扱いであり、和歌史の研究者からは、彼らも文字史については専門家かもしれないが絵画史については素人同然であると思われるのに、私は素人の勘違いの議論をしていると罵倒された。かるた史の素人からお前はかるた史の素人だと罵倒されるのは痛くも痒くもない笑い話で、どうでもいいことだが、崇徳院の扱いについての歌仙絵史専門家の解析を求めても非礼でも不当でもあるまい。
もう一点教えて欲しかったのは、江戸の浮世絵師、菱川師宣(もろのぶ)による改革の検証である。師宣(もろのぶ)は、延宝六年(1678)に、細川幽斎(ゆうさい)著、中院道勝(みちかつ)補訂の『百人一首像讃抄』に歌人図像と歌意図を提供し、二條家流に立つことを明らかにし、また延宝八年(1680)に『小倉山百人一首』を出版して、『素庵本』を徹底的に批判した。そして師宣(もろのぶ)は、これらの書物の出版を通じて、『素庵本』に対抗する挑戦的な歌人図像を発表した。師宣に言わせれば、『素庵本』などの先行作品には、身分不相応の衣裳、冠や持ち具、畳や茵(しとね)の配備における誤りが多数あるのである。これは、歌仙絵における土佐派の優越を覆して、江戸狩野派によるリーダーシップの奪取[1]を導く幕府の文治政策の大きな流れ[2]と連動する、かるた絵という小さな世界での具体的な動きであったと思われる。そして、この師宣(もろのぶ)の挑戦は大いに賛同を受けて、元禄年間(1688~1704)頃から百人一首かるたでも手本を『素庵本』や『尊圓本』から『師宣本』に切り換える動きが盛んになり、今日続く標準型のかるた図像が成立した。つまり、かるた史においては、元禄年間(1688~1704)が、それまでの『素庵本』モデルから『師宣本』モデルへの移行の時期であったのであり、そのもっとも顕著な変化が、崇徳院に繧繝縁(うんげんべり)の畳を配して皇統への回帰を示すことであった。
私は、昭和五十九年(1984)にこの違いに気付いたのがそもそもの始まりであったけれども、それが異様な事態であることは理解できても、正確な認識に辿り着くのには少し時間を要した。そして、当時からずっと、歌仙絵研究者にこの事態の解析と説明を期待してきたのであるが、その期待は一度も実現されてこなかった。そこで私は、特にこのウェブサイトの開設にあたって、素人論議であるが自分の見解を公にした。そして今でもなお、歌仙史研究者からの批判、教示を待ち望んでいる。
以上が、かるた史研究者の私が、研究領域を越境して百人一首生誕の秘密に関する和歌史専門研究者と素人研究者の議論という世界に踏み込んで感じた感想である。全体を通じて、私には素人研究者の議論の方が新鮮で面白かった。この世界への扉を開いて素人研究者に発表する勇気を与えた織田正吉の功績は筆舌に尽くしがたい。そう言う中で特に興味深かったのは、自身が和歌を詠み、詩人の魂をもっていて、また和歌史以外の何らかの領域で専門的な仕事をしている者の表している直感的な考察である。具体的な結論には同意しかねる点もいくつかあったけれども、こうした研究者の情熱と、歴史の真実を解明しようとするどんな領域の研究者にも共通して求められる廉直性の真摯な発露にはいつも感服してきた。そういう人々の存在を知ったことも、この読書遍歴の大きな収穫の一つである。他方で、和歌史の専門研究者集団は、過去三十年に及ぶ多くの素人研究者の挑戦などまったく無視ということか、どこ吹く風の気配で歯牙にもかけないのであるが、時々は、歯牙にかけないのではなく、この人たちには、かけるべき歯牙がもう抜けてしまったのではないかと感じることがあった。
過去を愚痴っても仕方がない。未来を向いた話をしよう。最近の研究で、私が大いに期待しているのは、同志社大学文化情報学部福田智子教室による「同志社大学文化情報学部蔵『百人一首かるた』(歌意図入り)四種―影印・翻字と考察(一)」の研究である。これは、所属大学が所蔵する四点の歌意図入りの百人一首かるたを詳細に研究するものである。
私がこの研究に注目する第一の理由は、この研究が、所属大学がデジタル公開している史料を使って営まれており、その成果について、私は紙媒体で知ったのだが、いずれデジタルにも開示されるであろう点にある。私が望んでいる、令和年間の、デジタル公開された共有の情報資産を活用する、オープンなかるた史研究の一つの在り方であろうと思う。この先駆性が素晴らしい。
二つ目に、この研究が扱っている素材の価値が注目される。百人一首かるた史研究では、これまで、江戸時代前期(1652~1704)、中期(1704~89)の歌意図付きかるたの良い史料に恵まれていなかった。だから、私も含めて研究者は、江戸時代中期(1704~89)初めの尾形光琳の美麗な手描きかるたを例外的な先駆的業績として示して、歌意図入りかるたはむしろ江戸時代後期(1789~1854)、江戸出来の錦絵版百人一首かるたの文化であるとしてきた。私も、これまでこの種のかるたは発見できていなかったので、そういうものは存在しないのだと決めつけていた。それが複数個も現れたのであるから大変に驚いたし、これを発掘して研究に活用している人たちには敬意を示したいと思う。こういう好史料に恵まれる幸運を得たこのグループの人々を祝福したい。
三つ目に注目したいのは、こうして貴重な百人一首かるた札そのものが数組も、二百枚完揃いの形で発見されたのであるから、この史料に関してどのような学術的な史料批判を加えるのかということである。私は、この研究グループが、こうした歌意図付きかるたのかるた史上での位置づけに関しても研究を深めることを期待している。その研究が実れば、日本のかるた文化史は一番古い部分で書き改められることになる。そういう誰も書いたことがない前人未到の研究課題に直面している自分たちの使命を考えてほしい。
同志社大学図書館が所蔵するかるたについては、デジタル公開されたデータを見ただけの判断だが、いくつか興味ある発見がある。だが、それをここで詳細に論じるのはやめておこう。私はこの研究グループのメンバーではないし、ゼミナールの指導教授でもない。そういう立場の私がしゃしゃり出て、あれこれ知ったかぶりをして指摘すれば、せっかくの若い研究者、学生たちの研究を奪うことになりかねない。こういう研究者のプライオリティの簒奪というアカハラ、パワハラの事例は、私が属していた大学でも、また他の大学でも、これまで数多く見てきた。若手研究者の溜め息や涙もずいぶん見てきた。だからここでは、何点かの情報提供にとどめておき、それを深めて研究する仕事は、この研究グループに任せておきたい。
情報提供であるが、まず、研究グループが「かるたA」としたかるたである。これは、延宝年間(1673~81)に公刊された『師宣本』の歌人名、和歌本文の表記、歌人図像に近い。また、このかるたの最大の特徴は簡素な丹緑の彩色であるが、これの理解には、慶応大学の石川透の奈良絵かるた研究の論稿が有益であろう。そして、上の句札に歌人図像、下の句札に歌意図という配置は、尾形光琳の百人一首かるたを思い出させる。いずれも江戸時代前期前半(1652~88)を指しているように思える。
次に、「カルタB」としたかるたであるが、上の句札に歌意を表す器物の挿画を加えるのは古い「譬えかるた」などにも見られる形である。歌人名や和歌本文の表記は『師宣本』に近いが、ただ、字配りや挿画の画風からの印象としては江戸時代中期(1704~89)以降の雰囲気が感じられる。また歌集前半の四人の天皇・上皇にはない「御製」の文字が後半の四人の上皇に添えられていることなどは理解しにくい。なお、百人一首で器物をもって歌意を表すのは、江戸時代中期以降に、大坂で始まって江戸で流行した「むべ山かるた」の様式である。ただし、「カルタB」では上の句札に絵があり、「むべ山かるた」では下の句札に絵がある。しかもそこでは、歌意図からもじりや見立ての戯画に変化している。この違いも含めて、両者の関連性を解明したら面白かろうと思う。
「カルタC」は、読み札に和歌の全句が書かれており、これは基本的には幕末期(1854~67)以降のかるたに見られるところである。このかるたについて所蔵者は、箱裏の書付を根拠に1914年(大正三年)としているが、たしかに、この時期に江戸時代のかるたを複製した可能性はある。但し、賭博系の百人一首かるた札である「むべ山かるた」では、古くから全句の表記であるから、全句だから明治以降、たぶん記載通りの大正三年(1914)の制作だと決めつけることはできない。「むべ山かるた」では下の句札に歌意を示す物品が、おどけた姿で描かれており、「かるたC」と「むべ山かるた」との関係は考えてみる意味があるように見える。
「かるたD」は文字の表記が『尊圓本』に近い。図像は、主として歌意を表す風景画であるが、中に何点か、和歌に詠まれた情景を表す人物が描かれている情景画があり、またさらに、歌意図の作成に倦んだのか、和歌を詠む歌人の図像もある。この図像から、このかるたの制作された年代やかかわった絵師などを突き止める作業も楽しいのではなかろうか。
なお、これらのかるたとは別に、同志社大学図書館には、もう一組興味あるかるたが所蔵されており、これもデジタルに公開されている。それは各読み札に「光」「貞」という二個の印が捺されている「百人一首かるた」であり、歌人名、和歌本文の表記、歌人図像などから、『尊圓本』の影響が強い江戸時代前期前半(1652~88)の良品と思われる。現存する百人一首かるたの中では有数の古さのものであるから、この研究グループも、直接にこれを観察して、古いかるたについての鑑定能力を養うことを勧めたい。なお、「光」」「貞」印であるが、土佐派の絵師、土佐光貞を思わせるが、光貞は江戸時代後期(1789~1854)の人であり、かるた札の作られた時期とが合わない。「光」」「貞」印の意味はよく分からない。
以上でこの若手の共同研究の紹介を終える。こういう新しい研究の芽吹きを報告できることはとても嬉しい。この研究が進展して、百人一首かるた史研究に新しい地平が見えてくることを期待している。
[1] 松島仁『徳川将軍権力と狩野派絵画』、ブリュッケ、平成二十三年。
[2] 島内景二『柳沢吉保と江戸の夢』笠間書院、平成二十一年。