この初期のむべ山かるたの新発見に付随して、一、二点の注記が必要である。第一に、昭和四十年代(1965~74)に山形県の旧家の人から滴翠美術館に寄贈された、屏風に仕立てられた手描きの「むべ山かるた」のカード二百枚の史料批判である。これは他に例がない完揃いのカードであり、発見の当時には、「日本かるた館」での研究において基準史料として重要視され、そのデータは昭和四十九年(1974)に全面的に開示された[1]。ところが、このカードでは、カードは上の句札と下の句札に分れ、上の句札には歌人絵がある。下の句札は明らかに「むべ山かるた」である。通常の「むべ山かるた」は上の句札ではなく和歌の本文が全部書かれた「読み札」であるので、これは、通常の百人一首のカードで下の句札に歌意図が入り、それが戯画に変化した段階のもの、つまり「むべ山かるた」としては先行形態であると判断され、戯画に登場する江戸の風俗から制作時期が推測され、その時期が「むべ山かるた」の発祥の時期であるとされた。

だが、私は、アメリカ、イエール大学図書館のカリーコレクション中に、この山形の「むべ山かるた」と全く同じ趣向の戯画を載せた木版印刷の「むべ山かるた」を発見した。絵札は百枚揃っているが、大判のビニールで何枚も一緒に並べてコーティングさていて直接に手で触れることができないし、写真を撮影するにも、照明の調整ができないのでビニールが光ってうまく写らないものがあるが、画像そのものは明瞭に判断できる。これにより、山形のかるたは、江戸時代中期に独創的に考案された一点限りの創作物ではなく、大量に生産された木版の「むべ山かるた」の写しであることが判明した。

「むべ山かるた」①  (イエール大学(アメリカ)・  カリーコレクション蔵、江戸時代後期)
「むべ山かるた」①
(イエール大学(アメリカ)
・ カリーコレクション蔵、江戸時代後期)
「むべ山かるた」①  (イエール大学(アメリカ)・  カリーコレクション蔵、江戸時代後期)
「むべ山かるた」①
(イエール大学(アメリカ)・
カリーコレクション蔵、江戸時代後期)

さらに、日本国内での、木版の初期「むべ山かるた」の発見により、この手描きカードの制作時期よりも以前からすでに木版の「むべ山かるた」が成立していたことも明確になり、この「日本かるた館」の解釈は根本的に否定された。さらに、時代の異なる数点の好史料が発見されてこれまで述べてきたような戯画の変遷の筋が見えるようになった。

ところで、山形の「むべ山かるた」の読み札では、上の句しか書かれていない。これは、珍しい。「むべ山かるた」は、流行するにつれて、百人一首に明るくない人々も遊技できるように、読み札にも下の句を加えるようになった。これにより、和歌の理解が不十分な読み手が詰まって遊技が混乱することがなくなった。この変化がいつ起きたのかははっきりしないが、寛政年間(1789~1801)の『博奕仕方風聞書』は「下句認候かるた」を並べ、、「上之句のかるた」を読むとしているのであるから、この時期にはまだ読み札は上の句だけであったのだろう。したがって、山形の「むべ山かるた」やその基になったイエール大学蔵の「むべ山かるた」は、普通このかるたとして雑誌などで紹介されているものよりも少し古い時期のものであろうと推測される。また、読み札に歌人像が入っているが、これも標準型の百人一首かるたの図像であり、しかも極彩色である。この様に彩色すれば制作コストは増大し、工程もややこしくなるのだが、あえてこうしていたのは、百人一首かるたの上の句札には歌人像が付くという以前からの標準に従ったからであろう。このことからも、専用札への転換がまだ徹底していない時期のものと推測される。

もう一点は、天保十五年(1844)刊の三升屋二三次の『紙屑籠』における「むべ山」の記事[2]の理解である。ここには、江戸よし町河岸の「よしや留右衛門」の見世で新企画の「むべ山がるた」を商っているという記事がある。「むべ山がるた」は、「百人一首上の句、下の句を訳て、下句には絵を書て合せしもの。 むべ山風を嵐といふらん 右の心の画面にて、下の句を絃(絵?)に書たる趣向のおもしろき者」である。人形町には、歌舞伎役者嵐音八の経営する鹿の子餅の店があり、その店が売り出している、竹の皮包に音八の家紋と「かのこ」とある札を紐で結わいた鹿の子餅を絵にして、上に「むへ山かせをあらしといふらん」を加えてカードに採用した「むべ山がるた」を「よしや留右衛門」の見世で売り出したというのである。同書に依れば、「むべ山がるた」の作者は松本幸四郎錦紅(錦江?)であり、「近年迄はたまたま見れど今たへてなし」である。また、天明九年(1789)刊の山東京伝『青楼和談新造図彙』の「嵐(あらし)」の項には、上部に「ヲヤおつな哥かるただ ちよつと見なんし」[3]とあり、下に「むべ山」かるたのカードが描かれている。したがって、天保九年(1838)からすると五十年以上も以前の天明九年(1789)にこの意匠のカードが存在し、新しもの好きの山東京伝が面白がって紹介していることになる。佐藤要人は「むべ山かるたというのは、(四代)松本幸四郎錦江の創案になるのかも知れない。他に確証がないので、断定はできないが、一つの有力な説として、十分に検討に値するものと云ってよかろう」とした。これは、いわば「むべ山」江戸起源説であるが、上述のように上方起源の古い史料が出てきたので疑問視されている。

一方、岩田秀行は「現在のところでは、田沼期に「歌かるた」に「むべ山」という賭博技法が生まれ(その詳しい時期は不明)、天明初期には江戸において「むべ山」専用の札が手作りで種種考案されるに至り、そうしたなかで、四代幸四郎作のものが天明年間(1781~89)末に版にされて流布されたと見るのがもっとも自然のようである。」[4]とした。天明年間初期の手作りの札というときには上記の山形県内から出たものが念頭にあったであろう。これが嚆矢であるという部分がもはや維持できないことはすでに述べたが、それ以外の記述、つまり、まず、田沼時代に、通常の百人一首かるたを使った「むべ山」という博奕色の強い遊技法が流行し、ついで、山東京伝らが言及しているように天明年間(1781~89)に専用札が(大坂で)作られるようになり、戯画のことだから新考案のものが次々と登場したのであろう、その一例として、四代幸四郎の作が現れたという理解であれば誤りではない。

このカードの中身の第二の特徴は、役札にはそれを示すマークがついていることである。江戸風の「むべ山」にも若干は残っているが、このカードほどにはっきりと印がついているものはほかに見ない。この点もまた初期のカードの特徴である。具体的に見れば、「嵐」(「むべ山風を嵐といふらん」)、「富士」(「富士の高嶺に雪は降りつつ」)に加えて、「人」が十四枚、「月」が九枚(「暁ばかり憂きものはなし」を含む)、「花」が五枚(「けふ九重に匂ひぬるかな」を含む)、「関」が三枚、合計三十三枚が役札である。なお江戸好みでは役札である「富士の高嶺に雪は降りつつ」は役札だがそれは雪だからではなく富士山だからであり、「わが衣手に雪は降りつつ」と「吉野の里に降れる白雪」はこのカードでは役札ではない。また「恋」も役札ではなく、江戸好みでは最高点に位置する「恋ぞつもりて淵となりぬる」は役札ではない。


[1] 「むべ山百人一首かるた」『別冊太陽愛蔵版 百人一首』平凡社、昭和四十九年、二一二頁。

[2] 岩田秀行「むべ山(やま)かるた」『解釈と鑑賞五一九号 川柳/江戸の遊び』、至文堂、昭和五十年、二一一頁に依る。

[3] 山東京伝『青楼和談新造図彙』、三樹書房、昭和五十一年、五八頁。

[4] 岩田秀行「むべ山(やま)かるた」『解釈と鑑賞五一九号 川柳/江戸の遊び』、至文堂、昭和五十年、二一三頁。

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